お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
大沼霊園で日清戦争戦没者・栗本与茂助と日露戦争戦没者・栗本藤三郎の墓碑を見つける ― 2010/11/30
仕事が忙しくなり、朝早くから深夜までかかりきりでは、墓碑の探索もできません。仕方がないので、2007年から撮りつづけていた写真を見直していました。
そして、2009年12月の写真のなかから、見つけました。日清戦争と日露戦争の戦没者の墓碑です。先日、百瀬村の忠魂碑にはめ込まれたプレートを紹介しました。下の写真はその一部ですが、そこに名前がある「栗本与茂助」と「栗本藤三郎」の墓碑です。
墓碑から、栗本与茂助は「陸軍歩兵二等卒」で、栗本藤三郎は「陸軍輜重輸卒」であったことがわかりました。しかし、撮影したとき、関心をひいたのは、別の墓碑であったので、側面の碑文を撮り忘れていました。また訪れることにします。
高島郡全体の日清と日露戦争戦没者の墓碑名簿データも更新しておきます。
そして、2009年12月の写真のなかから、見つけました。日清戦争と日露戦争の戦没者の墓碑です。先日、百瀬村の忠魂碑にはめ込まれたプレートを紹介しました。下の写真はその一部ですが、そこに名前がある「栗本与茂助」と「栗本藤三郎」の墓碑です。
墓碑から、栗本与茂助は「陸軍歩兵二等卒」で、栗本藤三郎は「陸軍輜重輸卒」であったことがわかりました。しかし、撮影したとき、関心をひいたのは、別の墓碑であったので、側面の碑文を撮り忘れていました。また訪れることにします。
高島郡全体の日清と日露戦争戦没者の墓碑名簿データも更新しておきます。
コメント
_ やつしろ ― 2010年12月07日 22時26分54秒
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月07日 23時03分09秒
ご苦労様です。
大変お忙しかったのですね。
合間をぬっての調査とその成果に感服いたします。
内容的にも、私がとても及ばないものとなっています。
当たり前なのかも知れませんが、知識の深さの
違いを感じています。
さて、私は今、身動きがとれない状態にあり、
これまでの資料の整理のような作業をしています。
墓碑の問題は、やはり神聖な領域に
足を踏み入れることになるので、
その点だけは、注意していこうと思います。
そして、矛盾することなのですけれど、
戦死や戦病死した若者の墓碑を見るたびに、
その生身の痛みや無念をそのままに
しておけない気がするのです。
まもなく、真珠湾攻撃の記念日が来ますね。
大変お忙しかったのですね。
合間をぬっての調査とその成果に感服いたします。
内容的にも、私がとても及ばないものとなっています。
当たり前なのかも知れませんが、知識の深さの
違いを感じています。
さて、私は今、身動きがとれない状態にあり、
これまでの資料の整理のような作業をしています。
墓碑の問題は、やはり神聖な領域に
足を踏み入れることになるので、
その点だけは、注意していこうと思います。
そして、矛盾することなのですけれど、
戦死や戦病死した若者の墓碑を見るたびに、
その生身の痛みや無念をそのままに
しておけない気がするのです。
まもなく、真珠湾攻撃の記念日が来ますね。
_ やつしろ ― 2010年12月08日 23時49分49秒
今日は「大東亜戦争」の開戦記念日。
私は、小学校(この年から「国民学校初等科」と言いました)一年生でした。
今日は、或る施設への月一回のボランティア法話の日です。
最初、戦争の時代(殆どの方が子供の頃)についての話し合い。
その後、大川悦生の「おかあさんの木」の読み聞かせをしました。
殆どの方が、男の人も含めて、大泣きをされました・・・・酷い時代だったのです。
それは、その時代に生きた子供にも、今でも脳裏から離れないくらいの傷跡として残っているのです。
私は、小学校(この年から「国民学校初等科」と言いました)一年生でした。
今日は、或る施設への月一回のボランティア法話の日です。
最初、戦争の時代(殆どの方が子供の頃)についての話し合い。
その後、大川悦生の「おかあさんの木」の読み聞かせをしました。
殆どの方が、男の人も含めて、大泣きをされました・・・・酷い時代だったのです。
それは、その時代に生きた子供にも、今でも脳裏から離れないくらいの傷跡として残っているのです。
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月09日 01時57分27秒
つい最近も「おかあさんの木」の記事を読みました。
やつしろさんのお話を思い出していたところでした。
やつしろさんのお話を思い出していたところでした。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
旧水尾村――6名。
水尾村は、鴨、宮野、野田、武曾横山の四つの大字がありますが、字内は同一宗派です。(このような例は極めて珍しく、多くは複数の宗派が入っています)
だから、墓地の問題でも、使用規定を決めやすいのです。
例えば、武曾横山の墓地・・・ここは天台真盛宗一か寺・・・200戸?
お盆の行事に墓参りがありますので早くから、墓石を建立(個人別)、土葬の場所と石塔のある所は別です。(清墓制)
日露戦争の三基、シナ事変の六基は、いずれも角型で、規格の大きさでした。
反対に、鴨は(宿鴨、出鴨、南鴨、北鴨に分かれ、250戸?)真宗大谷派一か寺。各在所の墓地は埋め墓専門、石碑を建てることは戦没者以外は許されませんでした。(真宗では墓回向はしませんし、墓をそんなには重要視しません)
宿鴨も出鴨も、木の墓標がある所に、ぽつんと一基、日露戦争の墓碑が建っていました。水尾村・・・完了です。