お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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三つの大国に挟まれた小国で2010/11/02

沖縄のばるタンさんの「へのへのこちゃん旗」(BIN★も参加)
 アメリカとの間には、普天間基地問題があり、中国との間には尖閣諸島、そしてロシアとは「北方領土」問題。
「極東」の小国には、外交の力が試されています。
 しかし、現実には『日本外交には戦略もなければ、信念もない』と指摘されている有様です。実際、戦前は「統帥権」により身動きがとれず、戦後はワシントンに従って行動する---これでは、外交の理念も戦略も育たないのは当たり前です。
 しかし、現実にそこに住んでいる一人としては、笑いごとではすまされません。国連での動きをみると、外交力とは軍事力や経済力とは違うものであることがわかります。弱腰外交への批判がストレートに軍事力強化に結びつく流れは、過去のものにしなければならないと思います。

保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機 下関戦争の舞台裏』(吉川弘文館)2010/11/02

保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機  下関戦争の舞台裏』(吉川弘文館)
 2010年の初めに出版された保谷徹氏の『幕末日本と対外戦争の危機』は、サブタイトルどおり、下関戦争を相手国のイギリスなどの資料を駆使して描いたものです。
 私が興味をひかれたのは、相手の側から見る視点の大切さです。歴史は、過去を扱います。”いまだから、わかる”ということもあります。しかし、こういう視点を今に生かすことはできるはずです。
 いずれにしても、オールコックの砲艦外交が限定戦争に終わり、全面戦争にいたらなかったことは幸いだったのです。
 その後の話なのですが、中国とはちがい日本は植民地化はまぬがれました。しかし、弱者の立場から学ぶことなく、侵略者へと成り上がる過程が始まります。突然で申し訳ないのですが、ロシアという国の歴史を見ても、同様の過程があったと思います。13世紀の「タタールのくびき」から脱却するために、中央集権国家が15世紀jに成立し、くびきを脱する。しかし、成立しつつあった大国のシステムのなかには入ることのできない辺境の国。海への出口を求めて、外交を駆使するが、隣に強力なポーランド国家。北には、騎士団とスエーデン。南部にはトルコ。18世紀に西欧化をしながら、一世紀かかって強国にのし上がる。その一方で、再販農奴制の上にそびえたつツァーリズムが確立。抑圧国家となる。
 対外的圧力から解放された国家が、他の国への進出を自制するのは、よほど難しいことなのでしょう。

サッカーボールを追いかけるチー(3月)2010/11/02

サッカーボールを追いかけるチー(3月)
チーネコが、まだ2か月のころ。 TVでサッカーの試合があった。 画面をじっと見ていたチーが いきなり参戦。 家族は笑いながら、見ていました。 TV画面の映像が理解できるんですね。

サムソン・フランソワのショパン作品集(BOX10枚組)2010/11/02

 CDを車に積んで走ります。とっかえひっかえしていると、ちがったケースに入れてしまい、後で探すのに大騒動。BOXはその点ましです。数字がちがっても、同じ箱の中ですから。
 サムソン・フランソワのショパンを昨日まで積んでいました。友人のKさんに乗せてもらったときにかかっていたのがショパン。演奏は、フジコ・ヘミング。論理的なつながりはありませんが、それでショパンでフランソワを載せて走っていました。
 音源は確かに古いです。音が丸くなっていますから。最初に聞いたピアノ協奏曲第一番で、わたし的にはブレークしました。ピアノ・ソロは普通にはじまるんだろうと無防備に聴いたのが間違いの元。遅い!!怪しい!油断禁物で・・・気に入ったのです。
Youtubeで演奏する姿が見たくなりました。見つけたのが、バラードの4番。

カザルスのバッハ無伴奏チェロ組曲2010/11/03

バッハの無伴奏チェロ組曲。
カザルスが発掘し世に出したバッハの傑作。

私が最初に聴いた演奏は、カザルスではなく、
シュタルケルのものでした。
例の有名なコダーイのものとセットでした。
鋭角的で正確な演奏で、いまでも好きです。
カザルスの最初の印象は、あまりに自由!というもの。
ビデオは1954年のものらしいです。
演奏する姿は、端正そのものですね。



 カザルスが故国スペイン内乱への西欧諸国の対応に抗議し、公開演奏を中止したのは、有名な話です。演奏家には自殺とも思える行為によってしか、思いが届けられないと思ったのでしょうか。それだけ、怒りが大きかったのか、それとも、演奏家が演奏する以上の価値を、その行為に認めたのか。

 フランソワが演奏していたショパンもポーランドの独立運動とは無縁ではありませんでした。偉大な音楽家は、世界の動きや自民族の運命に無関心ではいられないのですね。

年代を超えて~ショパンの練習曲作品10-4~2010/11/03

音楽の話が続いて恐縮です。
ショパンの練習曲は難曲。
作品10の4も、もちろんそうです。
二人の演奏を見ていて、
「老いも若きも」といってすまされない迫力です。

ルービンシュタインはおいくつだったのでしょう。



つぎは、小林愛美ちゃん。噂には聞いていましたが・・・すごいとしか言えません。。

田中墓地の日清戦争戦没者の墓碑とその後(八代さんのコメントから)2010/11/03

鳥居より高くそびえる日清戦争戦没者の墓碑@田中墓地
 上の写真は、安曇川の田中墓地です。鳥居が見えますが、その左にそびえるのが、日清戦争の戦没者・山崎松蔵の墓碑です。
 実際の大きさが写真ではうまく伝わりません。

八代さんから貴重なコメントをいただいています。記事としてアップして、記録として残るようにします。
三尾里という在所では、毎年老人会主催の追悼会が勤まり、殆ど毎年、御法話に参上しています。
3年ほど前、日清戦争の話をしたとき、日置卯市さんのことに触れました。
御遺族は早くから、ここを離れられ、生家は現在残っていないとのことでした。
百十年も前のことですから、いろいろあったのでしょう。

それに比べ、山崎松蔵さんの御子孫はキチンと健在です。
私の寺の門徒総代の奥さんがその家出身で、今はその弟さんの代です。
奥さんのお祖父さんの御兄弟だそうです。
大字田中からの戦没者第一号ということで、大層な葬式が営まれ、石碑は墓地にではなく、一番目につく往来に、それもびっくりするほど巨大な墓碑でした。
大人も子供も、毎日その前を通り、その人の武勲を称えたのでした。

戦後の土地ブームで墓碑の傍が売れ、住宅が建設されたのですが、「墓が傍では困る」という苦情が出て、本来の田中墓地に引っ越すことになりました。
特別大きな墓碑ですから、設置には広い土地が必要ですが、すでにいっぱいで設置する場所がありません。
町が間に入り、今までなかった所に土地を造り、場所を与え、現在に至っているのです。

だから、あのお墓だけ、特別の処にあるでしょう?

(八代さんのコメントより)

高くそびえる日清戦争の戦没者「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」2010/11/03

高くそびえる日清戦争の戦没者「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」
 上の写真は旧高島町にある「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」です。安曇川町田中墓地の「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」も巨大ですが、こちらも負けず劣らずそびえたっています。墓地の入口に、他の墓碑とは一線を画して置かれています。
 碑文が刻まれていますが、上の方は高すぎてカメラでも撮影しにくいのです。

 明治の世になって、はじめて経験する対外戦争とその犠牲者。中野墓地でも、田中墓地でも、地域社会に与えた衝撃の大きさがそのまま墓碑の大きさとなって表れています。 、

日清戦争「紀念碑」@蝉丸神社2010/11/03

日清戦争「紀念碑」@蝉丸神社
 大津市藤尾の蝉丸神社にある日清戦争の「紀念碑」です。上部の文字が読めなくて、困っていました。「明治廿七八季○忠勇戦死者」の○にあたる字です。

モーの点滴2010/11/04

モーの点滴
 モーが腎臓を患ってしまいました。様子がおかしいので検査してもらったら、ほとんど機能していない状況をしめす数値が出ました。「この子の命は正常な腎臓の部分がどれだけ残っているかに、かかっています」といわれて、緊急に入院し、治療を受けました。3日間の入院で数値は改善されました。あとは自宅でどれだけのことがやれるかです。
 私は正直、カミさんはえらいと思います。
 メー(メスネコ)のときもそうでしたが、献身的にネコの看病をしています。かわいそうといいながら、毎日、点滴の針をさして、モーの治療にあたっています。
 私は思わず、頼みました。
「私が病気になっても、ちゃんと毎日点滴してくれる?」
 答えは、「ノー」でした。
 もちろん理由は正当なものです。
「私は医師や看護師ではないから、ヒトには、点滴できません」
「それはネコへの差別だ!」と叫びそうになりましたが、まあ、夫婦の人情はともかく、安全を考えればそうですね。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)