お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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今屋花子之墓@旧大津陸軍墓地2007/11/17

おそらくは、将校の縁戚のための墓地と思われる旧大津陸軍墓地のMブロック。現存する10柱のうち5柱までは、かかわりのある将校の名前が特定することができています。残りは5柱。

●外見は、将校墓地とは別々の印象

 私が初めてMブロックの墓地を見たとき、同じ上段にあるものの、将校の墓地には偶然接しているだけだと思っていました。
 見たところ、関係がないと思わせる形になっているのです。
 将校の墓碑は、L字形に並んでいます。しかも、L字の内側に顔を向けて墓石は並んでいるのです。Mブロックは、L字の外側、つまり左側にあります。ですから、将校の墓碑のいくつかは、Mブロックに背を向けているのです。
 しかも、名前だけが彫られていたり、戒名だけがあったり。ていねいに見ないと関係がわかりませんでした。今は、これが将校の縁戚の墓地だとはっきりわかってきました。

●夭折した今屋花子

 墓石の横の碑文を読むと、わずか1歳でなくなっていることがわかります。明治43年6月22日のことです。
 墓碑には、これだけしか書かれていません。しかし、この名前と時代を手がかりに、かかわりのある将校がいないかどうか、探してみます。

牛渡六郎少佐の経歴2007/11/17

 この時点で、牛渡六郎少佐の経歴がすべてわかるわけではありません。分かっていることは、以下のことです。

①福島県出身の士族。

②第四鎮台第九連隊に所属

③明治28(1895)年、日清戦争出征。

④守備隊として、第九連隊大二大隊に属して勤務。

⑤最後の任務と階級は、第九連隊第三大隊長で少佐。

⑥明治30(1897)年に、行方不明になった。

⑦三男の墓碑は、日清戦争へ出征する直前に建立した。
 墓碑は、明治27(1894)年11月15日
 出征は、明治28(1895)年3月28日。

⑧長女は、少佐が行方不明になってから2年後に亡くなった
 行方不明を伝える文書は、明治30(1897)年8月。
 長女がな亡くなったのは、明治32(1899)年4月28日。
 行方不明が解消されたかどうかはたしかに不明。
 しかし、不自然な墓碑の建立のあり方からは、
 不幸な結果を想像します。

「福島県士族 牛渡三男」という碑文2007/11/17

「幽夢水子」という墓碑名を持つ墓石。その左側面には、「福島県士族 牛渡三男」と刻まれています。
 これは、この世に生をうけるまえに亡くなった牛渡少佐の男児の墓碑ではないでしょうか?
牛場少佐の三男の墓碑と長女の墓碑がならぶこの旧大津陸軍墓地。
では、牛渡六郎少佐の墓碑は、なぜ、ここにないのでしょうか?
 そもそも、牛渡六郎という人物は、どういう人なんでしょうか。
 それを調べてみることにします。

「幽夢水子」という墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/17

 牛渡六郎少佐の長女の墓石の右となりに並んでいるのが、この墓石です。悲しい名前が刻んであります。
 この墓碑を注意ぶかく見ると、左右に碑文があります。
 右には、「明治二十七年十一月十五日」の文字。
 左は、つぎにお見せする碑文がありました。

陸軍歩兵少佐 牛渡六郎の長女2007/11/17

「能受院妙道日喜大姉」という墓碑銘の裏の写真です。
この女性は、実は、陸軍歩兵少佐・牛渡六郎の長女だったと、裏を見てようやくわかるのです。
 
明治32年4月28日没。

実は、牛渡六郎中佐にかかわる墓碑がもう一柱、この墓碑の右隣に立っています。

「能受員妙道日喜大姉」と刻まれた墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/17

 旧大津陸軍墓地には、将校の家族の墓碑などが存在します。それぞれに刻まれた墓碑や碑文を読みながら、その生い立ちやここに眠るわけを知りたく思いました。
 私は、本来の「陸軍地」の上段部分に接するように土地を確保し、そこにこれらの墓碑が立てられたのだと思います。
 そういうことが出来るのかどうか、またそれが通例なのかどうかはわかりません。
私は、将校の墓地をAブロックと呼びます。同じ上段ですが、その隣にある縁戚の墓地をMブロックと呼ぶことにしています。

●Mブロック

 繰り返しになると思いますが。Mブロックには、本来、墓碑が11柱存在したはずです。1976年の時点では、11柱の図があります。しかし、現在は、「森田 千栄」という墓碑は存在しません。ですから、10柱しかないのです。
 10柱のうち、2柱は第九連隊長であった草場彦輔の妻とおそらく息子にあたる方の墓碑です。同じ上段にある伏木徳太郎大尉の妻の墓碑もあります。
 残り7柱の由来を明らかにしたいと思うのです。

●「能受員妙道日喜大姉」という墓碑

 Mブロックの一番右手にあるのが、この(写真)墓碑です。
 名前の代わりに戒名が刻まれていることに、この場での違和感があります。
 この墓碑がここにある理由は、墓石の裏側に刻まれている名前にあります。
 つぎにそれをお見せします。

戦死した伏木徳太郎大尉の遺児・孤敏子が建立した徳太郎妻・胤子の墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/06

旧大津陸軍墓地の上段、
将校の墓地にならんで建つ非軍人の墓碑。
そのうちの一つ、伏木胤子の墓石です。
その右側面がこれです。

クリックして拡大すれば、
つぎのように読めます。

伏木徳太郎歩兵大尉妻
遺孤敏子建

伏木胤子の墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/06

伏木胤子の墓石@旧大津陸軍墓地
旧大津陸軍墓地の上段には、将校の墓碑が並んでいます。同時に、その地続きに、軍人ではない人々、つまり、妻、子どもたちの墓碑が並んでいます。将校の墓碑の領域に一番近いところにあったのが、連隊長草場彦輔少将の妻の墓石でした。その次に並んでいるのがこの墓石です。

●伏木胤子の墓石

最初は、この墓石がどういう墓石なのか気がつきませんでした。そもそも、陸軍墓地になぜ女性の墓碑があるのか、不思議でした。ですから、これは違った領域がくっついているのだと思ったくらいです。しかし、そうではありませんでした。陸軍墓地がここにあり、将校の墓碑があるからこそ、この女性の墓碑が並んでいるのです。

墓碑の右側面をつぎの写真でお目にかけます。

草場三千雄氏の墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/03

草場三千雄の墓石@大津陸軍墓地
旧大津陸軍墓地の上段は、
将校の墓地(Aブロック)と
その家族の墓地(Mブロック)があります。
Mブロックのもっとも西よりにあるのが、
草場三千雄という墓碑名をもつ墓石です。
この方と草場少将との関係は、まだわかりません。

草場家三柱目の墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/03

草場家の三柱の墓石が見えています@旧大津陸軍墓地
旧大津陸軍墓地には、
戦死した将校とその家族が
隣あわせの墓地で眠っています。

草場家は、草場少将とその妻の墓碑以外に
もう一柱を目にすることができます。

●草場三千雄の墓碑

上の写真を見てください。
真ん中に大きな草場彦少将の墓碑。
その左に西田源吾中佐の墓石。
その左後ろが、草場少将妻の墓石。
この妻の墓石に重なってわずかに見えている墓石があります。それが、草場三千雄の墓石です。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)