お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
明治5年の兵卒の墓碑の碑文~「清水男外吉之墓」の背面~に原型がある ― 2010/11/02
農民が圧倒的多数の平民から徴兵して、明治陸軍を築く構想を建てたのは、大村益次郎でした。そういう意味では建軍の父なのでしょう。現実にそれを実行したのは、山県有朋でした。
徴兵は明治6年以降。それまでは、各藩の藩兵をあつめて、ありあわせの軍で間に合わせるしかありませんでした。それらは、主に士族であり、「壮兵」と呼ばれました。
それらの拠点として、鎮台が生まれ、そのもとで、彦根に営所がつくられました。そこに駐屯したのは、十八番大隊。農民騒擾の鎮圧に出動していました。その兵卒の墓碑が上の写真です。
りっぱな墓碑であり、碑文はいまなおしっかり読めます。
十八番大隊の墓碑は5基ありました。当初は彦根にありましたが、維持できなくなり、明治40年代に旧大津陸軍墓地に移設されました。
その旧大津陸軍墓地ですが、ここを営所とした歩兵第九聯隊のための墓地でした。練兵過程で亡くなる兵卒はでてきます。そのための埋葬地を必要としたからです。それは、全国の営所で共通の動きであり、その最初で最大のものが旧真田山陸軍墓地です。 この墓地に残る最初の頃の墓碑には、明治8年という日付が刻まれています(上の写真をクリックして拡大すれば読み取れます)。それは、この地に営所が建設された同じ年のことです。訓練をはじめるやいなや、たちまち病死をする若者が生まれたのです。衛生状態とか、訓練の激しさが関係していると思われます。
さて、そうして大津営所で亡くなった兵卒のための墓地が、明治11年までは中断のFブロック、それ以降は下段(東と西)です。
明治5年の十八番大隊の墓碑と歩兵第九聯隊の墓碑を比較するのは、興味深いことです。ただ、日清戦争以後の墓碑のように碑文がなければ、比較することができません。碑文がある日清戦争以前の墓碑との違いを見てみたいと思います。
徴兵は明治6年以降。それまでは、各藩の藩兵をあつめて、ありあわせの軍で間に合わせるしかありませんでした。それらは、主に士族であり、「壮兵」と呼ばれました。
それらの拠点として、鎮台が生まれ、そのもとで、彦根に営所がつくられました。そこに駐屯したのは、十八番大隊。農民騒擾の鎮圧に出動していました。その兵卒の墓碑が上の写真です。
りっぱな墓碑であり、碑文はいまなおしっかり読めます。
男外吉石川縣貫属卒加賀石川郡金沢大工町清水彦三男嘉永庚戌二月廿五日生明治壬申三月應徴為歩兵十八番大隊兵卒同年四月廿七日病没於大阪鎮台第一分営彦根屯所時年二十三「貫属」という言葉は、戸籍のある土地という意味です。本籍、家族関係(○○の男)、生年月日、入営日と入営先、死亡年月日、死亡場所、死亡年齢の順番で記述されています。旧大津陸軍墓地の墓碑を見ても、以後、これと同じ記述形式となっていきます。
十八番大隊の墓碑は5基ありました。当初は彦根にありましたが、維持できなくなり、明治40年代に旧大津陸軍墓地に移設されました。
その旧大津陸軍墓地ですが、ここを営所とした歩兵第九聯隊のための墓地でした。練兵過程で亡くなる兵卒はでてきます。そのための埋葬地を必要としたからです。それは、全国の営所で共通の動きであり、その最初で最大のものが旧真田山陸軍墓地です。 この墓地に残る最初の頃の墓碑には、明治8年という日付が刻まれています(上の写真をクリックして拡大すれば読み取れます)。それは、この地に営所が建設された同じ年のことです。訓練をはじめるやいなや、たちまち病死をする若者が生まれたのです。衛生状態とか、訓練の激しさが関係していると思われます。
さて、そうして大津営所で亡くなった兵卒のための墓地が、明治11年までは中断のFブロック、それ以降は下段(東と西)です。
明治5年の十八番大隊の墓碑と歩兵第九聯隊の墓碑を比較するのは、興味深いことです。ただ、日清戦争以後の墓碑のように碑文がなければ、比較することができません。碑文がある日清戦争以前の墓碑との違いを見てみたいと思います。
「彦根小営十八番大隊」6柱の墓碑から見えるもの ― 2008/10/22
私は近代日本史の研究者ではないので、研究史にこだわることなく、目の前にある墓碑から出発します。墓碑文を読み、そこから浮かんだ「なぜ」を追求しているに過ぎません。
そうして見えてきたものに驚き、それに突き動かされて先にすすんでいます。
そうして旧大津陸軍墓地を調べはじめて一年が経ちました。
今考えていることは、あちこちの墓碑を思いつきのように調べるのではなく、腰を落ち着けて、順番に見ていこうということです。
その最初が「陸軍大尉南保一義之墓」であったわけです。
南保大尉の墓碑は一番右の小さな墓石です。
背面の碑文が読めないという謎が好奇心をさそいました。亡くなった方には失礼な言い方になりましたが。
背面の碑文を読み解こうと、いろいろ努力するうちに、道が開けてきたことに驚いています。あきらめることはないのだと思ったのです。
もともとは彦根の大洞陸軍埋葬地にあった「十八番大隊」の6柱の墓碑文からは、明治5年前後の動きが、見えてきます。
そもそも「十八番大隊」という文字が、四鎮台時代の存在を生々しく訴えているのです。この文字がなければ、彦根に大阪鎮台の第一分営があったことを知ることはなかったでしょう。
もしかしたら、彦根市にも彦根分営の痕跡は残っていないかもしれません。そうなるとすれば、貴重な史跡(お墓に申し訳ありませんが)ということになります。 (ちなみに上の写真は彦根城)
下級武士を意味する「貫族卒」という言葉も同様です。
版籍奉還から廃藩置県、藩兵から鎮台兵へという流れのなかで、下層を含む武士階級が翻弄されていく姿が、この言葉ひとつで生々しく感じられました。
もちろん、わからないことだらけです。
明治4年8月20日に四鎮台制の設置が公布されます。東京、大阪、鎮西(当面は本営は熊本)、東北(当面は本営は仙台)。大阪鎮台は、北陸から四国までの広範囲を管轄下におきます。分営は二つ。そのうちの第一分営を小浜におき、近江、若狭・越前・加賀・能登・丹後・但馬・因幡・伯耆を管轄します。
なぜ、小浜なのかという疑問がわくのです。
もっとも、そこの営舎は使用する前に焼失し、そのために彦根に移駐するわけですが。
そして、大阪鎮台小浜(彦根)小営には、どの藩から将校、下士官、兵卒を集めたのか、知りたくなります。
墓碑を見る限り、「陸軍大尉」の南保一義は、金沢藩。卒の清水男外吉、長谷吉太郎そして辻安次も同様。残りの2名は小浜藩。
結局、管轄下にある藩から集めたんでしょうね。
「十八番大隊」は農民騒擾や士族反乱などの鎮圧を任務とし、明治4年12月から明治6年5月まで、彦根に営舎をおいたあと、伏見へ移動。
それは、四鎮台制から六鎮台制へ移行のため。
六鎮台になると、大阪鎮台の管轄は狭まります。本営は大阪、分営は大津と姫路。大津の第九連隊は、滋賀・敦賀・三重・度会の4県(現在でいえば滋賀、福井、三重)を管轄下においています。
小浜小営に属した加賀などは名古屋鎮台金沢営所に拠点をおく第七連隊のもとにおかれます。
「十八番大隊」として墓碑を並べている兵卒・将校は、六鎮台制のもとでは、いっしょになることはなかったはずの人たちなのです。
「十八番大隊」を調べることで、大津と彦根、福井や石川とのつながりが見えただけでも、私には収穫でした。
さて、つぎにどうするかです。
士族と明治陸軍のつながりは、兵卒の墓碑よりも、将校・下士官の墓碑に見ることができるはずです。
具体的には、旧大津陸軍墓地のCブロックとDブロック。
↑Cブロック。中段東側。
↑Dブロック。中段西側。
きわめて解読が困難な墓碑が並んでいます。
しかし、これは後回しにします。
大津に大阪鎮台大津営所ができあがり、第九連隊が入営するのが明治8年3月。それから、大津営所付埋葬地(陸軍墓地)ができるのが、明治10年10月。その間、病死した人たちを埋葬しているブロックがあります。
第九連隊の墓碑としては最古のFブロックです。
↑Fブロック。中段西。琵琶湖側。
そこに眠る37柱の墓碑を、ひとつひとつ見ていくことにします。
解読が容易だったいくつかの墓碑については、すでにブログに書いていますので、すべてが新しい情報というわけではありません。
そうして見えてきたものに驚き、それに突き動かされて先にすすんでいます。
そうして旧大津陸軍墓地を調べはじめて一年が経ちました。
今考えていることは、あちこちの墓碑を思いつきのように調べるのではなく、腰を落ち着けて、順番に見ていこうということです。
その最初が「陸軍大尉南保一義之墓」であったわけです。
南保大尉の墓碑は一番右の小さな墓石です。
背面の碑文が読めないという謎が好奇心をさそいました。亡くなった方には失礼な言い方になりましたが。
背面の碑文を読み解こうと、いろいろ努力するうちに、道が開けてきたことに驚いています。あきらめることはないのだと思ったのです。
もともとは彦根の大洞陸軍埋葬地にあった「十八番大隊」の6柱の墓碑文からは、明治5年前後の動きが、見えてきます。
そもそも「十八番大隊」という文字が、四鎮台時代の存在を生々しく訴えているのです。この文字がなければ、彦根に大阪鎮台の第一分営があったことを知ることはなかったでしょう。
もしかしたら、彦根市にも彦根分営の痕跡は残っていないかもしれません。そうなるとすれば、貴重な史跡(お墓に申し訳ありませんが)ということになります。 (ちなみに上の写真は彦根城)
下級武士を意味する「貫族卒」という言葉も同様です。
版籍奉還から廃藩置県、藩兵から鎮台兵へという流れのなかで、下層を含む武士階級が翻弄されていく姿が、この言葉ひとつで生々しく感じられました。
もちろん、わからないことだらけです。
明治4年8月20日に四鎮台制の設置が公布されます。東京、大阪、鎮西(当面は本営は熊本)、東北(当面は本営は仙台)。大阪鎮台は、北陸から四国までの広範囲を管轄下におきます。分営は二つ。そのうちの第一分営を小浜におき、近江、若狭・越前・加賀・能登・丹後・但馬・因幡・伯耆を管轄します。
なぜ、小浜なのかという疑問がわくのです。
もっとも、そこの営舎は使用する前に焼失し、そのために彦根に移駐するわけですが。
そして、大阪鎮台小浜(彦根)小営には、どの藩から将校、下士官、兵卒を集めたのか、知りたくなります。
墓碑を見る限り、「陸軍大尉」の南保一義は、金沢藩。卒の清水男外吉、長谷吉太郎そして辻安次も同様。残りの2名は小浜藩。
結局、管轄下にある藩から集めたんでしょうね。
「十八番大隊」は農民騒擾や士族反乱などの鎮圧を任務とし、明治4年12月から明治6年5月まで、彦根に営舎をおいたあと、伏見へ移動。
それは、四鎮台制から六鎮台制へ移行のため。
六鎮台になると、大阪鎮台の管轄は狭まります。本営は大阪、分営は大津と姫路。大津の第九連隊は、滋賀・敦賀・三重・度会の4県(現在でいえば滋賀、福井、三重)を管轄下においています。
小浜小営に属した加賀などは名古屋鎮台金沢営所に拠点をおく第七連隊のもとにおかれます。
「十八番大隊」として墓碑を並べている兵卒・将校は、六鎮台制のもとでは、いっしょになることはなかったはずの人たちなのです。
「十八番大隊」を調べることで、大津と彦根、福井や石川とのつながりが見えただけでも、私には収穫でした。
さて、つぎにどうするかです。
士族と明治陸軍のつながりは、兵卒の墓碑よりも、将校・下士官の墓碑に見ることができるはずです。
具体的には、旧大津陸軍墓地のCブロックとDブロック。
↑Cブロック。中段東側。
↑Dブロック。中段西側。
きわめて解読が困難な墓碑が並んでいます。
しかし、これは後回しにします。
大津に大阪鎮台大津営所ができあがり、第九連隊が入営するのが明治8年3月。それから、大津営所付埋葬地(陸軍墓地)ができるのが、明治10年10月。その間、病死した人たちを埋葬しているブロックがあります。
第九連隊の墓碑としては最古のFブロックです。
↑Fブロック。中段西。琵琶湖側。
そこに眠る37柱の墓碑を、ひとつひとつ見ていくことにします。
解読が容易だったいくつかの墓碑については、すでにブログに書いていますので、すべてが新しい情報というわけではありません。
金沢では「南保」という姓は、どう読みますか? ― 2008/10/21
「金沢大工町」の文字に ― 2008/10/21
金沢市は、1962年、「住居表示に関する法律」のモデル都市になり、旧い町名を改め、合理化したそうです。しかし、いまは、逆に旧町名が復活。藩の御大工衆が住んでいた「大工町」もその一つかも知れません。
金沢は、わが亡き父が終戦を迎えた都市です。
父は大正15(1925)年生まれ。召集後、通信兵として金沢市にいたそうです。空襲のときは、兵舎の屋根に銃をもって上って、撃ち落そうとしていたとか。私には、蛮勇としか思えませんが、それが唯一の戦功自慢なのでした。敵機に見逃してもらったおかげで、私が存在するわけです。
たしか、父と母の新婚旅行先でもあったような気がします。
ですから、「金沢」ときけば、行ったこともないのですが、なつかしく思えるのです。
余談でした。
十八番大隊の兵卒の墓碑の話。これにもどります。
「清水男外吉之墓」の墓碑文には、この若者の生地として、「石川県加賀金沢大工町」という文字が刻まれています(上の写真の一行目から二行目にかけて)。
男外吉は、加賀百万石の賑やかな城下町の中心地から、不安な気持ちを抱えて、井伊家の拠点・彦根市にやってきたのです。同じ城下町ですから、街並みを歩くとき、故郷のことをふと思い出したのではないでしょうか。しかし、そもそもそういう時間が彼にあったのでしょうか。
なぜなら、兵卒として召集されたのが1872年3月、「病死」が4月12日のことです。
このあまりの短さは、死因への不審を与えます。
個人的な事情(病弱とか、慢性疾患とか)と片付けられないのは、つぎつぎと若者が「病死」するからです。
本人の亡骸は、きっと土葬だったんでしょうね。彦根市の大洞陸軍埋葬地にいったん葬られたあと、同じく「病死」した他の若者5名とともに、1908年に、大津市の陸軍墓地に移葬されました。しかし、それで終わりではありませんでした。1971年にはバイパス工事のために、墓を再度掘られ、新しい敷地に移されて今日に至っているのです。
この先、知りたいこと。
「十八番大隊」のことで知りたいことは、まだまだあります。
たとえば、彦根藩の解体との関係。
彦根藩は、幕府の重鎮でありながら、新政府側にたって、戊辰戦争以降をたたかいます。その藩は当然、軍事力を維持しつづけているわけです。新政府は、藩の軍事力を解体し、徴兵制度によって自前の軍事力を作り上げるわけですが、過渡期(大久保利通と大村益次郎の論戦がある)では、藩兵をもちいざるをえません。
「十八番大隊」は(墓碑を見ると)、敦賀県と石川県が中心の構成に思えます。小浜に第一分営を置くのは、そのためでしょう。ところが、彦根にくる。それは、彦根には、城も営舎もあり、練兵場もあって、すぐに使える軍事施設があるからです。しかし、藩兵もいるんじゃないでしょうか。それらの施設から追い出していけば軋轢が生まれます。それとも、すでに、明治4年12月の段階では、彦根藩の軍事力は解体されていたのでしょうか?
同じようなことですが、じゃあなぜ、十八番大隊は、わずか1年半で彦根から移駐するのでしょうか。その答えは、彦根ではなく、大津に新しい徴兵軍(第九連隊という名前で)を置くからでしょうけれど、なぜ彦根ではなく、大津なんでしょう。彦根なら、城(兵舎や火薬庫を含む)もあるし、練兵場もある。財政的には負担が少ないはず。商都であった大津にはすぐ使える軍事施設はありませんでした。そのためには、大規模な工事が必要でした。明治の前年(慶応)に、大村益次郎が大津を視察して、そこの用地を軍事基地目当てに確保していたことはわかっています。しかし、いったんその計画はなくなったはず。なぜ、もとに戻ったのでしょうか。
この疑問は、すぐに解けることなんでしょうか。
もう一つは、彦根における十八番大隊の日常が、どこまでわかるのかということです。
資料を探すと、農民騒動鎮圧に出兵した記録が二度でてきます。それだけ?
また、モノは残っていないのでしょうか?
これらが知りたいことです。
もっと先のこと。
旧大津陸軍墓地には、兵卒の墓碑だけで、500近い墓碑があります。その一人ひとりの運命に心を寄せながら、調べていくのは、気が遠くなる作業です。
もっとも、約200柱ある日清戦争期の墓碑は、あまりに碑文が簡潔で、このブログのカテゴリーでいけば「旧大津(陸軍墓地)E(ブロック)」のように、集団としての連隊行動の記録を使って追跡することでしか、姿が浮かび上がらないものもあります。
大洞陸軍埋葬地から明治41年に移葬された6柱のうち5柱は明治5年没。南保一義大尉だけが没年がわかりません。第十八番大隊に所属しているわけですから、どんなに遅くても明治6年5月までに亡くなられています(十八番大隊は明治6年5月には伏見に移動)。
大津市に第九連隊の営舎ができて、第九連隊が移ってくるのが明治8年3月。旧大津陸軍墓地の竣工は明治10年10月です。つまり、この地で亡くなったわけではないにしても、上の6柱は現在の旧大津陸軍墓地最古の墓碑といえるのです。
この6柱のつぎに旧いグループは、大津市に営舎ができて(明治8年3月)から埋葬地ができる(明治10年10月)までの期間に亡くなった方々の墓碑です。
私がFブロックと名付けているエリアにある37柱。
「十八番大隊」のつぎは、このエリアの碑文を見ていくつもりです。
金沢は、わが亡き父が終戦を迎えた都市です。
父は大正15(1925)年生まれ。召集後、通信兵として金沢市にいたそうです。空襲のときは、兵舎の屋根に銃をもって上って、撃ち落そうとしていたとか。私には、蛮勇としか思えませんが、それが唯一の戦功自慢なのでした。敵機に見逃してもらったおかげで、私が存在するわけです。
たしか、父と母の新婚旅行先でもあったような気がします。
ですから、「金沢」ときけば、行ったこともないのですが、なつかしく思えるのです。
余談でした。
十八番大隊の兵卒の墓碑の話。これにもどります。
「清水男外吉之墓」の墓碑文には、この若者の生地として、「石川県加賀金沢大工町」という文字が刻まれています(上の写真の一行目から二行目にかけて)。
男外吉は、加賀百万石の賑やかな城下町の中心地から、不安な気持ちを抱えて、井伊家の拠点・彦根市にやってきたのです。同じ城下町ですから、街並みを歩くとき、故郷のことをふと思い出したのではないでしょうか。しかし、そもそもそういう時間が彼にあったのでしょうか。
なぜなら、兵卒として召集されたのが1872年3月、「病死」が4月12日のことです。
このあまりの短さは、死因への不審を与えます。
個人的な事情(病弱とか、慢性疾患とか)と片付けられないのは、つぎつぎと若者が「病死」するからです。
本人の亡骸は、きっと土葬だったんでしょうね。彦根市の大洞陸軍埋葬地にいったん葬られたあと、同じく「病死」した他の若者5名とともに、1908年に、大津市の陸軍墓地に移葬されました。しかし、それで終わりではありませんでした。1971年にはバイパス工事のために、墓を再度掘られ、新しい敷地に移されて今日に至っているのです。
この先、知りたいこと。
「十八番大隊」のことで知りたいことは、まだまだあります。
たとえば、彦根藩の解体との関係。
彦根藩は、幕府の重鎮でありながら、新政府側にたって、戊辰戦争以降をたたかいます。その藩は当然、軍事力を維持しつづけているわけです。新政府は、藩の軍事力を解体し、徴兵制度によって自前の軍事力を作り上げるわけですが、過渡期(大久保利通と大村益次郎の論戦がある)では、藩兵をもちいざるをえません。
「十八番大隊」は(墓碑を見ると)、敦賀県と石川県が中心の構成に思えます。小浜に第一分営を置くのは、そのためでしょう。ところが、彦根にくる。それは、彦根には、城も営舎もあり、練兵場もあって、すぐに使える軍事施設があるからです。しかし、藩兵もいるんじゃないでしょうか。それらの施設から追い出していけば軋轢が生まれます。それとも、すでに、明治4年12月の段階では、彦根藩の軍事力は解体されていたのでしょうか?
同じようなことですが、じゃあなぜ、十八番大隊は、わずか1年半で彦根から移駐するのでしょうか。その答えは、彦根ではなく、大津に新しい徴兵軍(第九連隊という名前で)を置くからでしょうけれど、なぜ彦根ではなく、大津なんでしょう。彦根なら、城(兵舎や火薬庫を含む)もあるし、練兵場もある。財政的には負担が少ないはず。商都であった大津にはすぐ使える軍事施設はありませんでした。そのためには、大規模な工事が必要でした。明治の前年(慶応)に、大村益次郎が大津を視察して、そこの用地を軍事基地目当てに確保していたことはわかっています。しかし、いったんその計画はなくなったはず。なぜ、もとに戻ったのでしょうか。
この疑問は、すぐに解けることなんでしょうか。
もう一つは、彦根における十八番大隊の日常が、どこまでわかるのかということです。
資料を探すと、農民騒動鎮圧に出兵した記録が二度でてきます。それだけ?
また、モノは残っていないのでしょうか?
これらが知りたいことです。
もっと先のこと。
旧大津陸軍墓地には、兵卒の墓碑だけで、500近い墓碑があります。その一人ひとりの運命に心を寄せながら、調べていくのは、気が遠くなる作業です。
もっとも、約200柱ある日清戦争期の墓碑は、あまりに碑文が簡潔で、このブログのカテゴリーでいけば「旧大津(陸軍墓地)E(ブロック)」のように、集団としての連隊行動の記録を使って追跡することでしか、姿が浮かび上がらないものもあります。
大洞陸軍埋葬地から明治41年に移葬された6柱のうち5柱は明治5年没。南保一義大尉だけが没年がわかりません。第十八番大隊に所属しているわけですから、どんなに遅くても明治6年5月までに亡くなられています(十八番大隊は明治6年5月には伏見に移動)。
大津市に第九連隊の営舎ができて、第九連隊が移ってくるのが明治8年3月。旧大津陸軍墓地の竣工は明治10年10月です。つまり、この地で亡くなったわけではないにしても、上の6柱は現在の旧大津陸軍墓地最古の墓碑といえるのです。
この6柱のつぎに旧いグループは、大津市に営舎ができて(明治8年3月)から埋葬地ができる(明治10年10月)までの期間に亡くなった方々の墓碑です。
私がFブロックと名付けているエリアにある37柱。
「十八番大隊」のつぎは、このエリアの碑文を見ていくつもりです。
「遠敷郡」(おにゅうぐん)の文字に ― 2008/10/21
「岡田滌良之墓」と「新畑周二之墓」に刻まれた「敦賀県遠敷郡」の語句。
「敦賀」はともかく、「遠敷郡」はすぐにはわかりませんでした。近隣の福井県の地名なのにはずかしい思いがしました。
また「おにゅうぐん」と読むことも驚きでした。
現地の方、申し訳ありません。
ちなみに、遠敷郡は、明治4(1871)年に成立した敦賀県の一部をなしています。明治11(1878)年の郡区町村編成法により、小浜に遠敷郡役所が置かれていたそうですが、2006年3月3日に”平成の大合併”で郡そのものが最終的に消滅しました。
最終的というのは、それまでも郡内の町や村が合併して郡から抜けて行っているからです。
地名がわかったことで、この2名の姿に少し迫れる気がしました。
さて、亡くなった若者の生きた横顔を追う様に書いてみます。
明治5年(1872)年、四鎮台制が敷かれ、大阪鎮台のもとで、十八番大隊が成立します。大阪鎮台は、第一分営を小浜に置き、そこにこの大隊を配置する予定でした。
小浜だからこそ、当時の石川県と敦賀県の士族の子弟が召集されたのでしょうか。むしろ、逆に、この地の士族を招集するから、拠点を小浜にしたのかも知れません。
ところが、明治4(1871)年12月に、火事で小浜の予定地が焼失という事件が起こります。
その原因は不明。ただし、なんらかの不満(つまり、放火?)からという憶測があるそうです。
ともかく、この事件のために、十八番大隊は、拠点を彦根に移します(彦根屯営)。
しかし、召集対象となる藩は変わることはなかったようです。
ともに敦賀県の卒(=足軽など下級武士)出身の新畑周二と岡田滌良は翌明治5(1872)年3月に召集されて、彦根屯営に入ります。
ところが、同年7月8日には、新畑が、8月15日には岡田が病死。
ともに24歳(数え年)の若さでした。
彼らが最後の数ヶ月を過ごした彦根屯営もまもなく閉鎖される運命でした。
四鎮台制から六鎮台制へ移行することにともなって、明治6(1873)年5月、十八番大隊は伏見に移されることになったのです。
彦根屯営は、一年半も続かなかった基地でした。
その期間に病死した兵卒5名(新畑・岡田を含む)と将校1名は、彦根藩の大洞火薬庫の敷地内につくられた陸軍埋葬地に葬られます。明治40(1907)年、墓の維持管理する体制もなくなるなかで、移葬願いが出され、翌年に官費で、大津市旧山上村の陸軍墓地に移されたのです。
伏見に移動した十八番大隊も、同年6月に解体されます。
ごく少数のものだけが、下士官として、その後も職業軍人の道を歩むことになりますが。
十八番大隊は、新徴兵軍ができるまで、過渡的に士族出身者が招集されて、農民騒擾や士族反乱の鎮圧のために使われた軍隊でした。
そして、わずか2年で姿を消します。満期で石川県や敦賀県の故郷に戻れた若者が多数いる一方、屯営で病死し異土で眠る若者もいたわけです。
「敦賀」はともかく、「遠敷郡」はすぐにはわかりませんでした。近隣の福井県の地名なのにはずかしい思いがしました。
また「おにゅうぐん」と読むことも驚きでした。
現地の方、申し訳ありません。
ちなみに、遠敷郡は、明治4(1871)年に成立した敦賀県の一部をなしています。明治11(1878)年の郡区町村編成法により、小浜に遠敷郡役所が置かれていたそうですが、2006年3月3日に”平成の大合併”で郡そのものが最終的に消滅しました。
最終的というのは、それまでも郡内の町や村が合併して郡から抜けて行っているからです。
地名がわかったことで、この2名の姿に少し迫れる気がしました。
さて、亡くなった若者の生きた横顔を追う様に書いてみます。
明治5年(1872)年、四鎮台制が敷かれ、大阪鎮台のもとで、十八番大隊が成立します。大阪鎮台は、第一分営を小浜に置き、そこにこの大隊を配置する予定でした。
小浜だからこそ、当時の石川県と敦賀県の士族の子弟が召集されたのでしょうか。むしろ、逆に、この地の士族を招集するから、拠点を小浜にしたのかも知れません。
ところが、明治4(1871)年12月に、火事で小浜の予定地が焼失という事件が起こります。
その原因は不明。ただし、なんらかの不満(つまり、放火?)からという憶測があるそうです。
ともかく、この事件のために、十八番大隊は、拠点を彦根に移します(彦根屯営)。
しかし、召集対象となる藩は変わることはなかったようです。
ともに敦賀県の卒(=足軽など下級武士)出身の新畑周二と岡田滌良は翌明治5(1872)年3月に召集されて、彦根屯営に入ります。
ところが、同年7月8日には、新畑が、8月15日には岡田が病死。
ともに24歳(数え年)の若さでした。
彼らが最後の数ヶ月を過ごした彦根屯営もまもなく閉鎖される運命でした。
四鎮台制から六鎮台制へ移行することにともなって、明治6(1873)年5月、十八番大隊は伏見に移されることになったのです。
彦根屯営は、一年半も続かなかった基地でした。
その期間に病死した兵卒5名(新畑・岡田を含む)と将校1名は、彦根藩の大洞火薬庫の敷地内につくられた陸軍埋葬地に葬られます。明治40(1907)年、墓の維持管理する体制もなくなるなかで、移葬願いが出され、翌年に官費で、大津市旧山上村の陸軍墓地に移されたのです。
伏見に移動した十八番大隊も、同年6月に解体されます。
ごく少数のものだけが、下士官として、その後も職業軍人の道を歩むことになりますが。
十八番大隊は、新徴兵軍ができるまで、過渡的に士族出身者が招集されて、農民騒擾や士族反乱の鎮圧のために使われた軍隊でした。
そして、わずか2年で姿を消します。満期で石川県や敦賀県の故郷に戻れた若者が多数いる一方、屯営で病死し異土で眠る若者もいたわけです。
「20代前半の兵士。同じ基地で4ヶ月に5人死亡」 ― 2008/10/19
自分でタイトルを書いてみて、
センセーショナルな報道記事のように思いました。
しかし、事実にはちがいありません。
ある自衛隊員が15名と次々と格闘するように
求められて、死亡した事件が報道されています。
TVを見ていると、ほかに自殺者も出ているそうですね。
そのとき、一つの基地に駐屯していたのは一大隊。
およそ600人の20代前半の若者の集団。
そこから、4ヶ月に5名の病死者が出る。
やはり、不自然です。
ただし、これは、現在ではなくて、
いまから、120年以上まえの話です。
ときは、明治壬申(1872)年のこと。
大阪鎮台彦根小営十八番大隊。
旧大津陸軍墓地に移葬された5柱の
墓碑から確認できる事実です。
その年の3月に軍隊に入ってから、
わずか数ヶ月の出来事です。
(年齢は数え年)
○清水男外吉 4月27日病死。23歳。
○長谷吉太郎 6月27日病死。20歳。
○新畑 周二 7月 8日病死。24歳。
○辻 安次 7月10日病死。22歳。
○岡田 滌良 8月15日病死。24歳。
いまの事件に触発された目で見れば、
どういう「病死」なのかという疑問が浮かびます。
シビルコントロールが建前の自衛隊でさえ
真実の解明が困難です。
120年を隔てた明治の軍隊における
「病死」の真実は、明らかにすることができるのでしょうか。
これらの墓碑が若者の無念さを
叫んでいるのではないかと思うと、落ち着きません。
センセーショナルな報道記事のように思いました。
しかし、事実にはちがいありません。
ある自衛隊員が15名と次々と格闘するように
求められて、死亡した事件が報道されています。
TVを見ていると、ほかに自殺者も出ているそうですね。
そのとき、一つの基地に駐屯していたのは一大隊。
およそ600人の20代前半の若者の集団。
そこから、4ヶ月に5名の病死者が出る。
やはり、不自然です。
ただし、これは、現在ではなくて、
いまから、120年以上まえの話です。
ときは、明治壬申(1872)年のこと。
大阪鎮台彦根小営十八番大隊。
旧大津陸軍墓地に移葬された5柱の
墓碑から確認できる事実です。
その年の3月に軍隊に入ってから、
わずか数ヶ月の出来事です。
(年齢は数え年)
○清水男外吉 4月27日病死。23歳。
○長谷吉太郎 6月27日病死。20歳。
○新畑 周二 7月 8日病死。24歳。
○辻 安次 7月10日病死。22歳。
○岡田 滌良 8月15日病死。24歳。
いまの事件に触発された目で見れば、
どういう「病死」なのかという疑問が浮かびます。
シビルコントロールが建前の自衛隊でさえ
真実の解明が困難です。
120年を隔てた明治の軍隊における
「病死」の真実は、明らかにすることができるのでしょうか。
これらの墓碑が若者の無念さを
叫んでいるのではないかと思うと、落ち着きません。
南保一義大尉は、「大阪鎮台」の将校と確認 ― 2008/10/16
この間、テーマにしている「南保一義大尉之墓」。
兵卒の墓碑文が参考になることがわかりました。
この数日間、南保一義大尉の墓と同じときに、
彦根の大洞陸軍墓地から旧大津陸軍墓地へ
移葬された5柱の兵卒の墓碑を調べてきました。
その結果、どの墓碑の碑文も、5行からなっていて、
記事の順番も判で押したように同じです。
つまり、名前、本籍地と生地、家、生年月日、
応徴日、病死日、死亡場所、享年。
墓碑の形もおなじ”かまぼこ形”なので、
南保一義は、兵卒ではなく、大尉ですが、
碑文は同じ形式だと思ったのです。
となると、だいたいどこにどんな内容かを考えて、
文字を推察する方向が見出せます。
たとえば、一行目最初の文字は、「一義」
これも、なんとなくあたっている気がします。
南保一義大尉の背面の碑文のうち、
最後の一行の最初が「鎮」に見えます。
幸いなことに、十八番大隊の兵卒・
「長谷吉太郎之墓」の背面を見ると、
「鎮」の文字からはじまっています。
つまり、5行目の一文字目が「鎮」という
可能性が状況的にまちがっていないってことです。
「鎮」なら、その次の文字は「台」。
「鎮台」と続けば、南保一義が四鎮台制のもとで
創設された十八番大隊の将校という証拠になります。
そうは言っても、文字の彫りが薄いので、弱気になると
「藩」という気がしないわけでもありません。
「藩」なら、彦根藩なのでしょうか。
論より証拠です。
今日、Yさんと陸軍墓地に行ったときに、
確認することにしました。
五行目の「鎮」の下は読めないので、
その前を、つまり四行目の最後の文字を狙いました。
その文字は下で土をかぶっています。
ということは、雨に打たれることが少ないので、
読める可能性が高いってことです。
現地に行った機会に、土をどけてみた結果は、
上の写真です。
「大阪」の文字が比較的はっきり読めます。
墓碑文からも、四鎮台制度時代の将校の墓碑
ということが確認されたわけです。
もちろん、これは騒ぐ必要もないくらい当然の結論です。
十八番大隊は大阪鎮台の彦根営舎にいる
部隊であり、当然、南保一義大尉もその一員
ってことは当初からわかります。
しかし、、墓碑から確認できたことが
私にはうれしいし、残りの文面を上に述べた
推察の方法で解読することができるという
確証を持った点が値打ちだと思います。
ジグゾーパズルのワンピースを見つけた一日でした。
兵卒の墓碑文が参考になることがわかりました。
この数日間、南保一義大尉の墓と同じときに、
彦根の大洞陸軍墓地から旧大津陸軍墓地へ
移葬された5柱の兵卒の墓碑を調べてきました。
その結果、どの墓碑の碑文も、5行からなっていて、
記事の順番も判で押したように同じです。
つまり、名前、本籍地と生地、家、生年月日、
応徴日、病死日、死亡場所、享年。
墓碑の形もおなじ”かまぼこ形”なので、
南保一義は、兵卒ではなく、大尉ですが、
碑文は同じ形式だと思ったのです。
となると、だいたいどこにどんな内容かを考えて、
文字を推察する方向が見出せます。
たとえば、一行目最初の文字は、「一義」
これも、なんとなくあたっている気がします。
南保一義大尉の背面の碑文のうち、
最後の一行の最初が「鎮」に見えます。
幸いなことに、十八番大隊の兵卒・
「長谷吉太郎之墓」の背面を見ると、
「鎮」の文字からはじまっています。
つまり、5行目の一文字目が「鎮」という
可能性が状況的にまちがっていないってことです。
「鎮」なら、その次の文字は「台」。
「鎮台」と続けば、南保一義が四鎮台制のもとで
創設された十八番大隊の将校という証拠になります。
そうは言っても、文字の彫りが薄いので、弱気になると
「藩」という気がしないわけでもありません。
「藩」なら、彦根藩なのでしょうか。
論より証拠です。
今日、Yさんと陸軍墓地に行ったときに、
確認することにしました。
五行目の「鎮」の下は読めないので、
その前を、つまり四行目の最後の文字を狙いました。
その文字は下で土をかぶっています。
ということは、雨に打たれることが少ないので、
読める可能性が高いってことです。
現地に行った機会に、土をどけてみた結果は、
上の写真です。
「大阪」の文字が比較的はっきり読めます。
墓碑文からも、四鎮台制度時代の将校の墓碑
ということが確認されたわけです。
もちろん、これは騒ぐ必要もないくらい当然の結論です。
十八番大隊は大阪鎮台の彦根営舎にいる
部隊であり、当然、南保一義大尉もその一員
ってことは当初からわかります。
しかし、、墓碑から確認できたことが
私にはうれしいし、残りの文面を上に述べた
推察の方法で解読することができるという
確証を持った点が値打ちだと思います。
ジグゾーパズルのワンピースを見つけた一日でした。
20代前半の下級士族出身の若者の墓碑に ― 2008/10/13
地名の部分が読めない墓碑がありますが、
5柱の十八番大隊の兵卒の墓碑文は
だいたいわかりました。
ちなみに5名とは、(年齢は数え年)
K131 清水男外吉 (23歳で歿)
K132 長谷吉太郎 (20歳で歿)
K133 新畑 周二 (24歳で歿)
K134 辻 安次 (22歳で歿)
K135 岡田 滌良 (24歳で歿)
です。
それぞれのエントリーに内容は書いてあります。
5名の若者はすべて、20代前半。
「卒」(足軽などの下級武士)出身で
明治5年3月に兵卒として入営。
そして、4月、6月、7月、8月に「病死」。
出身地は、敦賀縣と石川縣。
彦根もしくは近辺の出身ではありません。
彦根から離れた出身地となっているのは、
もともと小浜に大阪鎮台の第一小営を
置く予定で、その近辺から兵を集めた
結果だと思えます。
出身地との関係を見てみたくなりました。
出発点は、「南保一義大尉之墓」
碑文が一番の手がかりなのですが、
摩滅しきってほとんど解読不可能です。
それでも、兵卒の墓碑と同じく5行。
最後の行の一文字目が「鎮」と読めます。
5名の兵卒の墓碑から、南保大尉にたどりつく
手がかりはあるのでしょうか?
まずは、やってみます。
5柱の十八番大隊の兵卒の墓碑文は
だいたいわかりました。
ちなみに5名とは、(年齢は数え年)
K131 清水男外吉 (23歳で歿)
K132 長谷吉太郎 (20歳で歿)
K133 新畑 周二 (24歳で歿)
K134 辻 安次 (22歳で歿)
K135 岡田 滌良 (24歳で歿)
です。
それぞれのエントリーに内容は書いてあります。
5名の若者はすべて、20代前半。
「卒」(足軽などの下級武士)出身で
明治5年3月に兵卒として入営。
そして、4月、6月、7月、8月に「病死」。
出身地は、敦賀縣と石川縣。
彦根もしくは近辺の出身ではありません。
彦根から離れた出身地となっているのは、
もともと小浜に大阪鎮台の第一小営を
置く予定で、その近辺から兵を集めた
結果だと思えます。
出身地との関係を見てみたくなりました。
出発点は、「南保一義大尉之墓」
碑文が一番の手がかりなのですが、
摩滅しきってほとんど解読不可能です。
それでも、兵卒の墓碑と同じく5行。
最後の行の一文字目が「鎮」と読めます。
5名の兵卒の墓碑から、南保大尉にたどりつく
手がかりはあるのでしょうか?
まずは、やってみます。
『岡田滌良之墓』(K135) 24歳の墓碑 ― 2008/10/13
四鎮台時代に、彦根におかれてい大阪鎮台彦根小営。
駐屯していのは、壮兵からなる第十八番大隊。
一小隊は60人。一中隊は2小隊。一大隊は五中隊。
となると、600名だったのか。
わずか3年程度の駐屯時代に病死した兵卒の墓碑が
現在、旧大津陸軍墓地に5柱あります。
これが紹介してきたものの最後の墓碑。
「岡田滌良之墓」。
私には、この若者の名前の読み方さえわかりません。
こういう漢字であろうとは思うのですが。
碑文も読みづらい。
最初の一行ですが、出身は、「敦賀縣」と読めませんか。
つまり、「滌良敦賀縣貫属卒若狭遠敷郡府中村」と。
生年月日は「嘉永巳酉四月十日生」(1849年)
入営は「明治壬申三月應徴為歩兵十八番大隊兵卒」
死亡年月日「同年八月十五日病没」(1872年)
二十四年の生涯。
駐屯していのは、壮兵からなる第十八番大隊。
一小隊は60人。一中隊は2小隊。一大隊は五中隊。
となると、600名だったのか。
わずか3年程度の駐屯時代に病死した兵卒の墓碑が
現在、旧大津陸軍墓地に5柱あります。
これが紹介してきたものの最後の墓碑。
「岡田滌良之墓」。
私には、この若者の名前の読み方さえわかりません。
こういう漢字であろうとは思うのですが。
碑文も読みづらい。
最初の一行ですが、出身は、「敦賀縣」と読めませんか。
つまり、「滌良敦賀縣貫属卒若狭遠敷郡府中村」と。
生年月日は「嘉永巳酉四月十日生」(1849年)
入営は「明治壬申三月應徴為歩兵十八番大隊兵卒」
死亡年月日「同年八月十五日病没」(1872年)
二十四年の生涯。
『辻安次之墓』(K134) 22歳の墓碑 ― 2008/10/13
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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