お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
4へ圓城寺納本に付賞与申入 ― 2007/11/18
総木工第一七八号 過ル明治十一年十一月十三日附ヲ以園城寺献納木之義ニ付云々御申出相成候処今般別紙写之通滋賀県へ達相成候条為御心得此段申入候也 十三年四月二日 陸軍歩兵大佐 浅井道博 工兵第四方面本署佐官御中 追而御賞与之義ハ内務省へ御照会相成候間此段申添候也 滋賀県 其県下大津園城寺ヨリ慶応四年四月大津兵営建設之竹木献納之義旧軍隊事務局へ願出其節弁事伝達所之指令ニ因テ納方相見合セ有之処其後明治六年六月大津兵営建築岩手之竹木伐採御用相成候処右献納之竹木数年間保守之手当トシテ特別ヲ以テ金百円下賜候条該省へ下渡方可取計此旨相達候事 十三年四月 陸軍卿 大山厳
C04029593500
★「慶応四年四月」の記述に注目した。
C04029593500
★「慶応四年四月」の記述に注目した。
4より埋葬地開墾竣成上申(明治10年10月7日) ― 2007/11/18
●旧大津陸軍墓地(大津第九営附属埋葬地)の竣工をつたえる資料
この資料に書かれている日付=明治10(1877)年10月7日が節目となる日付ということになります。
姫路と大津の数字がちがうように思えるのですが。姫路が第七営で、大津が第九営ではないのでしょうか?
C04027507100
ちなみに、姫路にあった陸軍墓地は、戦後に大改修され、名古山公園となっているそうです。
この資料に書かれている日付=明治10(1877)年10月7日が節目となる日付ということになります。
姫路と大津の数字がちがうように思えるのですが。姫路が第七営で、大津が第九営ではないのでしょうか?
工千三十八号 埋葬地開墾竣成ノ義ニ付申進
一大津第七営附属埋葬地
一姫路第九営附属埋葬地
右夫々開墾方作業竣成相成候間此段申進候也
明治十年十月七日
工兵第四方面提理代理陸軍大尉谷邨猪介
陸軍卿山縣有朋殿代理陸軍中将西郷従道
申出ノ趣ニ付爾来同地ヘ埋葬可致旨大坂鎮台ヘ相達候事但此等ノ件ハ@@可伺出義ト可心得事
C04027507100
ちなみに、姫路にあった陸軍墓地は、戦後に大改修され、名古山公園となっているそうです。
旧大津陸軍墓地の形成についてのメモ ― 2007/11/13
これまでわかったこと、考えられることをメモする
いくつかの旧陸軍省の文書を読むと、旧大津陸軍墓地が、領域を広げながら、形成されていったことをうかがわせる。
●創設の事情について
旧大津陸軍墓地の出発点は、大阪鎮台第九管第九連隊のために、大津営所ができたことにある。
第九連隊は、明治7(1874)年5月、大阪鎮台第5大隊を第一大隊に改組し、徴兵をもって第二大隊にして、成立した。だが、この時点で、大津営所の工事は完成していなかった。
大津営所に、第九連隊が移動してきたのは、明治8(1875)年3月8日である。
そこから、練兵が始まる。激しい訓練の結果、兵士がなくなる。そこで、埋葬所が必要となる。
ちなみに、現在の旧大津陸軍墓地で見ると、明治8(1875)年7月15日に亡くなっている兵(舘源左衛門)の墓碑がある。同月22日に、喜多圭三郎。
そういうことを背景にして、明治8(1875)年7月31日第三十一号陸軍埋葬地取設旁御達」が出されて建設プロジェクトが開始される。
●当初の名称について
旧大津陸軍墓地の当初の名称は、「大津営所附埋葬地」。
明治9年1月8日付けの文書を見れば、すでに図面が出来ていて、買収作業に入っていることがわかる。
滋賀県当局からは、明治8(1875)年12月28日付けで詳しい所有者と地価が掲載されている文書が提出されている。そこには、「部屋が谷」という地名が入っている。これこそ、旧陸軍墓地のあるところの名称である。
●買収作業など
現在の旧大津陸軍墓地は、民有地と官有地が交じり合っていた土地であったらしい。土地関係について、内務省に陸軍省が報告している文書が存在する。日付は、明治10年5月17日。
ところで、民間地は買収し、官有地は内務省に願い出ることになるのだろう。この買収作業は、いつ終わるのか。明治10(1877)年の夏ごろまでの文書はあるが、それ以降はない。ということは、秋には買収は終わったのだと思われる。
●建設について
建設作業の開始とか完成などについての文書はさしあたり見当たらない。
●西南戦争の時期
この埋葬地の建設計画が進んでいたのは、明治政府が軍事的に最大の危機に直面している頃である。つまり、新神連の乱、萩の乱、そして西南戦争。
これとの関係はどうなのだろうか。
ちなみに、西南戦争が始まる明治10(1877)年2月までに死亡した第九連隊の下士官と兵士で、旧大津陸軍墓地に葬られているのは、36柱だと思われる。
●西南戦争の戦死者441名はどこに葬られいるか?
旧大津陸軍墓地には、西南戦争で戦死した下士官と兵の墓碑はない。それらは、戦場にちかい九州の官営墓地に眠っているはずである。また、鹿児島から引き上げ後、コレラなどで大阪臨時陸軍病院で亡くなった病死者は、真田山墓地に眠っている。
大津市の三井寺観音堂の御幸山には、合葬碑である「紀念碑」が明治11(1878)年に建設された。
●増設とその事情について
墓地の増設は、明治30(1896)年に行われている。明治30年6月の文書あり。そこでは、単に「大津埋葬地」と呼ばれている。増設は、日清戦争と台湾征服戦争にかかわりがあるのかも知れない。ところで、明治15年の文書もあるが、これは、内容を確認することにしよう。
******以上まだ書きかけである******
いくつかの旧陸軍省の文書を読むと、旧大津陸軍墓地が、領域を広げながら、形成されていったことをうかがわせる。
●創設の事情について
旧大津陸軍墓地の出発点は、大阪鎮台第九管第九連隊のために、大津営所ができたことにある。
第九連隊は、明治7(1874)年5月、大阪鎮台第5大隊を第一大隊に改組し、徴兵をもって第二大隊にして、成立した。だが、この時点で、大津営所の工事は完成していなかった。
大津営所に、第九連隊が移動してきたのは、明治8(1875)年3月8日である。
そこから、練兵が始まる。激しい訓練の結果、兵士がなくなる。そこで、埋葬所が必要となる。
ちなみに、現在の旧大津陸軍墓地で見ると、明治8(1875)年7月15日に亡くなっている兵(舘源左衛門)の墓碑がある。同月22日に、喜多圭三郎。
そういうことを背景にして、明治8(1875)年7月31日第三十一号陸軍埋葬地取設旁御達」が出されて建設プロジェクトが開始される。
●当初の名称について
旧大津陸軍墓地の当初の名称は、「大津営所附埋葬地」。
明治9年1月8日付けの文書を見れば、すでに図面が出来ていて、買収作業に入っていることがわかる。
滋賀県当局からは、明治8(1875)年12月28日付けで詳しい所有者と地価が掲載されている文書が提出されている。そこには、「部屋が谷」という地名が入っている。これこそ、旧陸軍墓地のあるところの名称である。
●買収作業など
現在の旧大津陸軍墓地は、民有地と官有地が交じり合っていた土地であったらしい。土地関係について、内務省に陸軍省が報告している文書が存在する。日付は、明治10年5月17日。
ところで、民間地は買収し、官有地は内務省に願い出ることになるのだろう。この買収作業は、いつ終わるのか。明治10(1877)年の夏ごろまでの文書はあるが、それ以降はない。ということは、秋には買収は終わったのだと思われる。
●建設について
建設作業の開始とか完成などについての文書はさしあたり見当たらない。
●西南戦争の時期
この埋葬地の建設計画が進んでいたのは、明治政府が軍事的に最大の危機に直面している頃である。つまり、新神連の乱、萩の乱、そして西南戦争。
これとの関係はどうなのだろうか。
ちなみに、西南戦争が始まる明治10(1877)年2月までに死亡した第九連隊の下士官と兵士で、旧大津陸軍墓地に葬られているのは、36柱だと思われる。
●西南戦争の戦死者441名はどこに葬られいるか?
旧大津陸軍墓地には、西南戦争で戦死した下士官と兵の墓碑はない。それらは、戦場にちかい九州の官営墓地に眠っているはずである。また、鹿児島から引き上げ後、コレラなどで大阪臨時陸軍病院で亡くなった病死者は、真田山墓地に眠っている。
大津市の三井寺観音堂の御幸山には、合葬碑である「紀念碑」が明治11(1878)年に建設された。
●増設とその事情について
墓地の増設は、明治30(1896)年に行われている。明治30年6月の文書あり。そこでは、単に「大津埋葬地」と呼ばれている。増設は、日清戦争と台湾征服戦争にかかわりがあるのかも知れない。ところで、明治15年の文書もあるが、これは、内容を確認することにしよう。
******以上まだ書きかけである******
内務へ大津に而埋葬地として買収云々(陸軍省 明治10年5月17日) ― 2007/11/13
内務省へ近江滋賀郡山上村民有地の内受領致度照会(陸軍省 明治10年3月) ― 2007/11/13
第278号(陸軍省 明治9年1月から10年3月) ― 2007/11/13
内務省へ戦死者埋葬地所買入協議(陸軍省 明治10年11月9日) ― 2007/11/13
内務滋賀県下埋葬地受領の義照会(陸軍省明治15年7月25日) ― 2007/11/04
埋葬地取調派出の伺(陸軍省明治11年4月) ― 2007/11/04
陸軍埋葬地ナキ場所ニ於テ葬儀取扱方ヲ候ス(名古屋鎮台明治07年06月26日) ― 2007/11/04
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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