お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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政治家が倒れるということ(目片市長の不幸と幸運)2007/06/01

目片市長が3月に倒れたあと、再起できるのかという声がありました。しかし、再び公務につくということになりました。下の記事は、産経新聞のもの。これによって、状況がわかりましたが、初期の対処がわかり、復帰についても納得した次第です。

*************************
目片大津市長、驚異的な回復
 脳の血流障害の可能性があるとして3月下旬に入院し、今月10日に公務復帰を果たした大津市の目片信市長が急速な回復をみせ、周囲を驚かせている。復帰当初に使っていた杖(つえ)も今は必要なくなり、公務時間も次第に増え、「責務を全うしたい」と意気軒高。「奇跡的な生還」(関係者)ともいわれる回復の裏には、倒れた場所に偶然、市民病院の医師らが居合わせたという幸運もあった。(有川真理)

 「大変や」「救急車を早く」

 目片市長が倒れたのは3月23日、同市のホテルで開かれた自治連合会の懇親会の席上だった。会の終盤、参加者全員が輪になって「琵琶湖周航の歌」を歌っていたとき、突然、フロアの絨毯(じゅうたん)に後ろ向きに倒れ、いびきをかき出した。

 駆け寄る参加者、救急車を呼びに外に飛び出す市の職員。会場は騒然となった。そのとき容体を診たのが、大津市民病院の医師らだった。同じホテルの別の部屋で懇親会を開いていたところ、知らせを受けて駆け付けたのだ。市長の様子を気遣う関係者らに「動かしてはいけない」と注意し、救急車がくるまで見守った。「あのとき、医師らが適切な処置をしてくれなかったら…」。市の関係者らは偶然の幸運に感謝する。

 目片市長は市民病院に入院当初、ろれつが回らなかったり、左手にマヒがあるなど、「重症の様子」(市幹部)だった。しかし治療の結果、次第に元気になり、一般病棟に移ると、見舞いに訪れた市の幹部らに統一地方選の動向を尋ねたり、仕事の指示をメモにして渡すなどした。

 退院は今月7日。そのわずか3日後に公務に復帰した。「回復力は驚異的。一般の人の半分の期間で退院された。これが政治家の意欲なのかもしれない」と医師も驚くほど。医師が杖を取り上げるまで歩行訓練を続けるなど、リハビリ中から並々ならぬ復帰への熱意を見せていたという。

 「倒れてから、健康についての意識が変わった」と話す目片市長。1日2箱吸っていたタバコをやめ、禁酒も宣言。食事は野菜類を中心とし、1日1800カロリー以内に抑え、リハビリをかねた早朝の散歩も続けている。

 職員の健康にも気をつかい、「健康なときにこそ、健康診断を受けるように」と庁内放送で呼びかけ、幹部会議でも健康管理の大切さを話したという。

 「私の存在が認められるのは、公務以外にない」。目片市長は力を込めていう。ただ、現在も投薬や定期的な検診は続けており、「無理せず、くれぐれも慎重に」と周囲は気遣いをみせる。

(2007/05/31 03:38)

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)