お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
花に見とれて動けない?Qooのお散歩から ― 2010/10/14
戦死者の墓碑めぐりの出発点となった4基の墓碑 ― 2010/10/14
私の戦死者の墓碑めぐりは、ある日突然始まりました。それは、200年8月のことでした。細い山道から塀越しに見えるとんがった墓碑が気になりだしたのです。用事で毎週通る道でしたが、その日は、時間をつくって、墓地に足を踏み入れました。
第二次世界大戦(日中戦争・太平洋戦争)の戦死者の墓碑が並ぶなかに、焦げ茶色にくすんだ墓碑が四つ並んでいました。
その姿に惹かれて、近くまで行きました。
故陸軍野戦銕道隊 松岡 七郎 墓
陸軍歩兵上等兵 大塚 萬吉 墓
陸軍歩兵上等兵 片岡 平次郎 碑
陸軍歩兵上等兵 山口 三治郎 塋
側面に回って、死亡年月日の部分を見ました。
松岡七郎の墓碑には、「明治三十七年六月十五日於福岡懸沖島附近佐渡丸遭難死」と意外な事実が書き込まれていました。大塚萬吉の墓碑には「明治三十八年三月七日 清国奉天附近小貴興堡於戦死」とあり、片岡平次郎には「明治三十八年三月十九日 清国奉天附近小貴興堡戦死」、山口三治郎には「明治三十七年八月二十四日 盤龍山砲台於附近戦死」と刻まれていました。
それは、まさしく日露戦争の戦没者の墓碑でした。一世紀も昔の戦争が、現実の姿をして迫ってきました。その驚きが私を突き動かし、墓碑めぐりをはじめさせたのだと思います。
いまこの四つの墓碑を見たとき、松岡七郎の墓碑が注目されるのです。記事をあらためて、それに触れたいと思います。
第二次世界大戦(日中戦争・太平洋戦争)の戦死者の墓碑が並ぶなかに、焦げ茶色にくすんだ墓碑が四つ並んでいました。
その姿に惹かれて、近くまで行きました。
故陸軍野戦銕道隊 松岡 七郎 墓
陸軍歩兵上等兵 大塚 萬吉 墓
陸軍歩兵上等兵 片岡 平次郎 碑
陸軍歩兵上等兵 山口 三治郎 塋
側面に回って、死亡年月日の部分を見ました。
松岡七郎の墓碑には、「明治三十七年六月十五日於福岡懸沖島附近佐渡丸遭難死」と意外な事実が書き込まれていました。大塚萬吉の墓碑には「明治三十八年三月七日 清国奉天附近小貴興堡於戦死」とあり、片岡平次郎には「明治三十八年三月十九日 清国奉天附近小貴興堡戦死」、山口三治郎には「明治三十七年八月二十四日 盤龍山砲台於附近戦死」と刻まれていました。
それは、まさしく日露戦争の戦没者の墓碑でした。一世紀も昔の戦争が、現実の姿をして迫ってきました。その驚きが私を突き動かし、墓碑めぐりをはじめさせたのだと思います。
いまこの四つの墓碑を見たとき、松岡七郎の墓碑が注目されるのです。記事をあらためて、それに触れたいと思います。
3年遅れ(明治41年)の合祀 ~21歳の鉄道掃除夫雇人の死~ ― 2010/10/14
松岡七郎の墓碑については、すでにブログに書いたことがあります。
「ロシア・ウラジオストック艦隊の砲撃で死亡した野戦鉄道隊員の墓石」
ロシア極東艦隊の輸送船攻撃によって、松岡七郎が乗船した佐渡丸も砲撃を受けたのです。
『大津市志』には、つぎの記述があります。
最初に記事を書いたときも、「明治41年5月合祀」という記述に注目していたことは事実です。しかし、遅れの事実に、深い理由を見つけることができませんでした。
この21歳の若者は、死亡経過から見て、戦没死であることはまちがいありません。明治37年に死亡しているにもかかわらず、明治38年5月の第一回目の臨時大祭での合祀せず、第二回目の明治39年5月でも合祀せず、明治40年の「特別合祀」でも合祀せず、さらに一年延ばして、明治41年に合祀されました。
これは、偶然の遅れではなく、軍人ではない民間人への差別が原因だと思います。
松岡七郎の墓碑は、さきに紹介した4柱のひとつでした。そこには、同じ明治37年に戦死した27歳の後備兵山口三治郎の墓碑も置かれています。その墓碑の側面を見ると、旅順要塞攻撃に参加したことがわかります。
『大津市志』には、この青年の人物志もあります。
同じ明治37(1904)年に戦没していますが、松岡青年が6月、山口青年は8月です。天皇の名による戦争に従軍してともに死亡。しかし、 合祀は、山口青年が先で明治39(1906)年、松岡青年は明治41(1908)年になっています。
この両者の場合は、2年遅れということになります。
「ロシア・ウラジオストック艦隊の砲撃で死亡した野戦鉄道隊員の墓石」
ロシア極東艦隊の輸送船攻撃によって、松岡七郎が乗船した佐渡丸も砲撃を受けたのです。
『大津市志』には、つぎの記述があります。
大津市了徳町一番地
鉄道掃除夫雇人 松岡七郎
明治十六年三月十日生
明治三十七年五月二十六日野戦鉄道に隷属し、三十七八年戦役従軍御用船佐渡丸に乗込。明治三十七年六月十五日筑前国沖の島南方に於て敵艦の砲撃を受け避難準備中端艇沈没の為め溺死。同日従軍記章授与。同四十一年五月靖国神社に合祀せらる。
最初に記事を書いたときも、「明治41年5月合祀」という記述に注目していたことは事実です。しかし、遅れの事実に、深い理由を見つけることができませんでした。
この21歳の若者は、死亡経過から見て、戦没死であることはまちがいありません。明治37年に死亡しているにもかかわらず、明治38年5月の第一回目の臨時大祭での合祀せず、第二回目の明治39年5月でも合祀せず、明治40年の「特別合祀」でも合祀せず、さらに一年延ばして、明治41年に合祀されました。
これは、偶然の遅れではなく、軍人ではない民間人への差別が原因だと思います。
松岡七郎の墓碑は、さきに紹介した4柱のひとつでした。そこには、同じ明治37年に戦死した27歳の後備兵山口三治郎の墓碑も置かれています。その墓碑の側面を見ると、旅順要塞攻撃に参加したことがわかります。
『大津市志』には、この青年の人物志もあります。
大津市観音寺町四十八番屋敷
陸軍歩兵上等兵勲八等功七級 山口三治郎
明治十年十一月二十三日生
明治三十年徴兵出身予備役として後備歩兵第九連隊に属し、三十七八戦役従軍各地戦闘。明治三十七年八月二十二日清国東鶏冠山砲台付近の戦闘に於て死傷不詳戦死。同日叙勲八等白色桐葉章及功七級金鶏勲章 従軍記章を授け賜ひ同三十九年靖国神社に合祀せらる。
同じ明治37(1904)年に戦没していますが、松岡青年が6月、山口青年は8月です。天皇の名による戦争に従軍してともに死亡。しかし、 合祀は、山口青年が先で明治39(1906)年、松岡青年は明治41(1908)年になっています。
この両者の場合は、2年遅れということになります。
「軍役夫」の墓地@旧真田山陸軍墓地 ― 2010/10/14
戦争で死亡した民間人を、死後どう扱うのか---それは、その国家の性格をよく表しています。
日清戦争のときに、軍夫(軍役夫)がほぼ正規軍の兵站部隊に相当する規模で使われました。輜重卒もいましたが、それは養成途上であり、兵站は民間人を用いたのです。装備も劣るし、防寒用具もまともにあたえられないまま、軍夫は戦闘にまきこまれる場合もあり、多数亡くなりました。しかし、それらの人々は戦死者のなかに含まれませんでした。
ここにも、民間人を軍隊の下に見下す姿勢がありありと示されています。墓碑には「陸軍野戦鉄道隊」と刻まれていますが、『大津市志』には「鉄道掃除夫雇人」と書かれている松岡七郎の扱いはその一つです。
ちなみに、「軍夫」の存在を確認できる唯一の場所が、旧真田山陸軍墓地です。934柱の軍役夫の墓碑がならんでいます。
ちなみにここには、旧高島郡高島町出身の軍夫である中江幸四郎の墓碑があります。そのことは、以前のブログで書いたとおりです。
日清戦争で病死した軍夫・中江幸四郎(高島市音羽出身)の墓碑
日清戦争のときに、軍夫(軍役夫)がほぼ正規軍の兵站部隊に相当する規模で使われました。輜重卒もいましたが、それは養成途上であり、兵站は民間人を用いたのです。装備も劣るし、防寒用具もまともにあたえられないまま、軍夫は戦闘にまきこまれる場合もあり、多数亡くなりました。しかし、それらの人々は戦死者のなかに含まれませんでした。
ここにも、民間人を軍隊の下に見下す姿勢がありありと示されています。墓碑には「陸軍野戦鉄道隊」と刻まれていますが、『大津市志』には「鉄道掃除夫雇人」と書かれている松岡七郎の扱いはその一つです。
ちなみに、「軍夫」の存在を確認できる唯一の場所が、旧真田山陸軍墓地です。934柱の軍役夫の墓碑がならんでいます。
ちなみにここには、旧高島郡高島町出身の軍夫である中江幸四郎の墓碑があります。そのことは、以前のブログで書いたとおりです。
日清戦争で病死した軍夫・中江幸四郎(高島市音羽出身)の墓碑
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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