お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争では17名、日露戦争では100名の戦病死者@旧高島郡 ~安曇村の日露戦争の戦病死者10名の墓碑を捜す~ ― 2010/10/01
私が日常的にフィールドワークができるのは、大津市と高島市に限られています。面積は高島市の方が大きいのですが、人口は大津市が高島市の6倍を超えます。
個人の力で調べるとすれば、規模の小さな地域のほうが適しています。
たとえば、日清戦争(1894~95年)と日露戦争(1904~05年)を見ると、高島市は、前者で17名、後者で100名の若者が戦病死しています。その足跡をたどることは、まだ可能な数だと思いました。
それが、高島市に私がかかわる理由の一つです。
さて、田中共同墓地は、安曇川町にあります。戦後直後の合併前は、安曇村でした。
この安曇村からは、以下の10名の若者が日露戦争で戦病死しています。
安曇村田中の出身者は4名です。
2010年7月に、「4名すべての墓碑が、田中共同墓地にあり、砲弾型」と八代さんから連絡をいただきました。仕事にけりがついた9月末日になって、実際に見ることができました。感謝しています。
個人の力で調べるとすれば、規模の小さな地域のほうが適しています。
たとえば、日清戦争(1894~95年)と日露戦争(1904~05年)を見ると、高島市は、前者で17名、後者で100名の若者が戦病死しています。その足跡をたどることは、まだ可能な数だと思いました。
それが、高島市に私がかかわる理由の一つです。
さて、田中共同墓地は、安曇川町にあります。戦後直後の合併前は、安曇村でした。
この安曇村からは、以下の10名の若者が日露戦争で戦病死しています。
○横江 菊次郎 安曇村大字西萬木
明治37年8月21日 東鶏冠山
○薬師川 彌市 安曇村大字田中
明治37年8月24日 旅順
○藤澤 傳治郎 安曇村大字田中
明治37年8月21日 旅順要塞
○日置 鹿蔵 安曇村大字西萬木
明治37年8月21日 旅順要塞
○前川 幸太郎 安曇村大字田中
明治37年10月6日 東干家野戦病院(病死)
○福井 彌七 安曇村大字三尾里
明治38年4月1日 廣島予備病院(病死)
○河井 角右衛門 安曇村大字常盤木
明治38年3月12日 大坂予備病院(病死)
○多胡 徳治郎 安曇村大字常盤木
明治37年10月3日 遼陽兵站病院(病死)
○熊谷 新次郎 安曇村大字田中
明治37年9月3日 ドウズアシュアンシウズイ
○中西 傳次郎 安曇村大字西萬木
明治38年3月23日 対馬付近船内
安曇村田中の出身者は4名です。
2010年7月に、「4名すべての墓碑が、田中共同墓地にあり、砲弾型」と八代さんから連絡をいただきました。仕事にけりがついた9月末日になって、実際に見ることができました。感謝しています。
旧安曇村田中共同墓地には砲弾型墓碑がある ― 2010/10/01
八代さんにご紹介いただいたように
旧安曇村の田中共同墓地には、
砲弾型墓碑が4柱ありました。
戦死者の墓碑ですから、例によって
一番目につく場所に置かれています。
鳥居を入り口にして、すぐ左手に
日清戦争の戦死者の墓碑。
「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」
これはすでに紹介しました。
左手には、この墓碑しかありません。
墓地そのものは、傾斜地にあり、
左手は竹藪になり、そのまま崖でした。
ですから、本来の場所は右手です。
左手に、この墓碑が置かれているのは、
戦死者の墓碑という位置づけから、
無理にそこに置いたということになります。
入ってすぐ右手の最初のスペース、
一番目につく場所にあるのが、
戦死者の墓地です。
そこに砲弾型墓碑が3柱見えます。
いったん墓地の内部に入り、
入り口にむかって振り向きながら
撮影しました。
右手の鳥居が俗世と墓地の結界。
旧安曇村の田中共同墓地には、
砲弾型墓碑が4柱ありました。
戦死者の墓碑ですから、例によって
一番目につく場所に置かれています。
鳥居を入り口にして、すぐ左手に
日清戦争の戦死者の墓碑。
「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」
これはすでに紹介しました。
左手には、この墓碑しかありません。
墓地そのものは、傾斜地にあり、
左手は竹藪になり、そのまま崖でした。
ですから、本来の場所は右手です。
左手に、この墓碑が置かれているのは、
戦死者の墓碑という位置づけから、
無理にそこに置いたということになります。
入ってすぐ右手の最初のスペース、
一番目につく場所にあるのが、
戦死者の墓地です。
そこに砲弾型墓碑が3柱見えます。
いったん墓地の内部に入り、
入り口にむかって振り向きながら
撮影しました。
右手の鳥居が俗世と墓地の結界。
旅順で亡くなった「陸軍歩兵上等兵藤澤徳治郎碑」@田中共同墓地 ― 2010/10/01
「故陸軍歩兵一等卒勲八等熊谷新治郎墓」@田中共同墓地 ― 2010/10/01
「故陸軍歩兵一等卒前川幸太郎墓」@田中共同墓地 ― 2010/10/01
「陸軍歩兵上等兵薬師川弥市墓」@田中共同墓地 ― 2010/10/01
「戦死」と「戦病死」と「戦没」 ~日露戦争の碑の場合~ ― 2010/10/01
重要なご指摘をいただきましたので、調べることにしました。
「戦死」と「戦病死」と「戦没」の違いです。
現在のWikipediaには、次のように書かれています。
これは、いわば定義なのであって、それらが、どういう位置を与えられたのか、死者にどういう扱いの違いを生んだのか、などは出てきません。
その問題はあとにして、日露戦争(明治三十七・八年戦役)の碑の記述について、確かめることにしました。なぜかというと、私が安易に、「戦病死者」という言葉が、戦死者と戦病死者を合わせて使うことができると錯覚した原因の一つがここにあったからです。
明治三十七八年戦戦没将校同相當官戦病死者合葬碑
ここでは、「戦没」と「戦病死」が区別されているわけです。
私は「戦病死」しか見ていませんでした。
同様の碑は、あと3柱、合計4柱でセットになって存在します。
碑文だけを掲載します。
明治三十七八年戦戦没准士官戦病死者合葬碑
明治三十七八年戦戦没下士戦病死者合葬碑
明治三十七八年戦戦没兵卒戦病死者合葬碑
提起された課題(戦死者、戦病死者、戦没者の概念的・社会的区別)については、もう少し時間をいただきたいと思います。
************************************
追加
写真を見直しましたが、「没」ではなく、「役」じゃないかとあらためて思いました。私が「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」のミニ研究会用に作成した文書を見直すと、「役」と書いていました。
それも忘れて、「没」としてのは、どうかと思いましたが、「三十七八年戦役」と考えるのが正しいと思います。
となると、戦死者は、合葬していずに、戦病死者だけが、ここに合葬されているのか、ということになります。
わからなくなりました。
「戦死」と「戦病死」と「戦没」の違いです。
現在のWikipediaには、次のように書かれています。
戦死(せんし・英:Killed in action, KIA)とは、軍や市民防衛隊あるいはゲリラなどの構成員が作戦・戦闘に参加し、その行動中に死亡することを言う。類義語に「戦没」がある。こちらは戦争で死亡することをさし、戦闘に巻き込まれた一般市民の犠牲者や出征中の直接の戦闘に関わらない病死(戦病死)も含まれる。
これは、いわば定義なのであって、それらが、どういう位置を与えられたのか、死者にどういう扱いの違いを生んだのか、などは出てきません。
その問題はあとにして、日露戦争(明治三十七・八年戦役)の碑の記述について、確かめることにしました。なぜかというと、私が安易に、「戦病死者」という言葉が、戦死者と戦病死者を合わせて使うことができると錯覚した原因の一つがここにあったからです。
明治三十七八年戦戦没将校同相當官戦病死者合葬碑
ここでは、「戦没」と「戦病死」が区別されているわけです。
私は「戦病死」しか見ていませんでした。
同様の碑は、あと3柱、合計4柱でセットになって存在します。
碑文だけを掲載します。
明治三十七八年戦戦没准士官戦病死者合葬碑
明治三十七八年戦戦没下士戦病死者合葬碑
明治三十七八年戦戦没兵卒戦病死者合葬碑
提起された課題(戦死者、戦病死者、戦没者の概念的・社会的区別)については、もう少し時間をいただきたいと思います。
************************************
追加
写真を見直しましたが、「没」ではなく、「役」じゃないかとあらためて思いました。私が「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」のミニ研究会用に作成した文書を見直すと、「役」と書いていました。
それも忘れて、「没」としてのは、どうかと思いましたが、「三十七八年戦役」と考えるのが正しいと思います。
となると、戦死者は、合葬していずに、戦病死者だけが、ここに合葬されているのか、ということになります。
わからなくなりました。
わが家に来た頃のチーネコくん(2月) ― 2010/10/01
チーはモーが大好き ― 2010/10/01
あまりに大きさがちがいました ~モーとチー~ ― 2010/10/01
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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