お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「今屋友次郎謹書」の文字@清林の碑 : ひとつの再会2009/06/21

「今屋友次郎謹書」の文字@清林の碑
旧志賀町の木戸にある清林の碑。
巨大な石碑に刻まれた碑文の最後を
見ると、つぎように刻まれています。

大正七年三月
陸軍少将従四位勲二等功三級今屋友次郎謹書




見つけましたね、今屋友次郎の文字。

今屋友次郎は、大津市に営所があった
陸軍歩兵第九聯隊の連隊長であり、
また、退役後は、大津市長となった人物です。

なぜ、私は、これが見たかったのか?
それは、親子の絆を結ぶため・・・なのです。

旧大津陸軍墓地の上段に、
将校の妻や子などが眠る墓地があります。
そこに「今屋花子」と刻まれた墓碑。



側面には、死亡年月日の横に「享年一才」とあります。
旧大津陸軍墓地には、この幼児にかかわる
墓碑(将校である父や母)の墓碑は
ひとつとして存在しません。

最初は、なぜ、ここにと思ったのです。
調べるうち、今屋友次郎という人物の
存在にゆきつきいたということなのです。
そして、その名前を刻んだ碑を見つけた・・。

だれも知らない親子の名前を刻んだ墓碑が、
二つの名前は、今日、私の瞳のなかで再会
したということになりますね。

今屋友次郎については、
この日記にデータを書いておきました。

今屋花子の墓(左側面)@旧大津陸軍墓地2008/02/29

今屋花子という赤子が、亡くなった日付と歳が刻まれている痛ましい墓碑です。
 旧大津陸軍墓地には、兵士や将校だけが眠っているのではありません。将校の妻、娘、息子なども、ともに眠っています。
 将校たちは、生地を離れて日本各地で軍隊に勤務していきます。日本国内にとどまらないかも知れません。そうしたとき、帰るあてもない故郷にではなく、住み慣れた任地の陸軍墓地に自らと縁戚者の墓を置いたのではないでしょうか。
 今屋友三郎の場合は、第九連隊長のあと、第30連隊長も経験しています。それは、大津ではないはず。なのに、退役したとき、大津で市長になっています。
なぜ、なんでしょうか?
この幼子の墓と関係があるのでしょうか?

今屋花子の墓(正面)@旧大津陸軍墓地2008/02/29

わずか1歳で亡くなった「今屋花子」の墓碑
これが、旧大津陸軍墓地にある今屋花子の墓碑です。わずか1歳で夭折した子どもの墓碑としては、とてもりっぱなものだと思いました。

信じられないことに「中村定吉」の名前が出てきた2007/12/01

●中村節男はだれの縁者か

旧大津陸軍墓地のMブロック。
そこに「中村節男」と「中村男」という
二つの墓碑が並んで建っている。

「中村節男」の墓石に左側面に
中村定吉之長男」という文字がある。
私は、刻まれているとすれば、
中村無一」という
第九連隊長の名前だと思っていた。
Mブロックには、連隊長か副連隊長クラスの
縁戚しか埋葬されていないからだ。
だが、墓碑には
「中村定吉」とはっきり刻まれている。

●地権者の墓碑??

たまたま、この地に住んでいた
だれかのものかと思い、
用地買収した元の地権者の
名前まで探してみた。
だが、「中村」という文字はない。

●アジア歴史センターで

半ばあきらめながら、こんどは
アジア歴史資料センターのサイトで検索を試みる。
「中村」で検索して、
そのあと「定吉」で絞り込むという方法。
22件も登場。
少し期待がもてた。
だが、「中村」と「定吉」がバラバラ
(長谷方定吉と中村一男とか)になっていたり、
年代がかけ離れていたり・・・。

●中村少尉

そのなかで「中村少尉結婚願の件
というのが出てきた。
明治32年とある。
開けると「中村定吉」の文字。
少尉クラスで見事に当たるとは思えなかったが、
画像を開いて驚いた。

大当たりなのだ。

●中村無一連隊長の長女の婿

結論は、中村無一連隊長の長女の婿
それが「中村定吉」だったのである。
となると、「節男」は、
無一の孫ということになる。
だが、結婚願いが明治32年。
節男の没年が明治35年である。
3歳にならない・・・夭折である。
これも悲しい墓碑なのだ。

肆第一九九三号 第四師団 中村歩兵少尉結婚願之件 御指令案 願之通 十月十九日 結婚願 長﨑県肥前国長﨑市外浦町 士族武官 中村無一長女 ハワチヨ 明治十五年十二月一日生 明治三十二年十一月十六年十一个月 定吉儀 今般熟談ノ上右ニ記載ノ者ト結婚致度依テ別紙身元証書家計保護金証書相添差出候間御許可被下度此段奉願候也 明治三十二年十月十日 陸軍歩兵少尉中村定吉 陸軍大臣子爵桂太郎 前書之趣篤ト取調候処不都合无之ニ付御許可相成度候也 第四師団長陸軍中将男爵小川又次 家計保護金証書 一金六百円也 右今般結婚奉願候ニ付御許可ノ上家計保護金トシテ可差出候也 明治三十二年十月十日 陸軍

「中村節男」の墓碑に刻まれた「中村定吉之長男」の文字2007/12/01

「中村定吉之長男」の文字(中村節男の墓より)@旧大津陸軍墓地
11月24日の「旧大津陸軍墓地を見て考え語り合う会」のあと、
AブロックとMブロックの墓碑の写真を整理していた。

Mブロックは、将校の縁戚者の墓地。
そこに「中村節男之墓」がある。
その左側面に
中村定吉之長男」と
刻まれていた。
私はてっきり「中村無一」という
第九連隊長の名前があるのだと思っていた。

中村定吉とは何者なんだろうか。

「西田芳子墓」@旧大津陸軍墓地2007/11/18

旧大津陸軍墓地の上段に、将校の墓地とならんで、その縁戚の墓地があります。
将校の墓碑は、20柱。
現存する縁戚の墓碑は10柱です。
縁戚の墓碑の大部分は、女性の墓碑です。
その一つが、この「西田芳子墓」。
明治44年2月17日没と墓碑に見えます。

●西田源吉中佐の縁戚?

じつは、将校の墓地の中には、西田源吉中佐の墓碑があります。まずは、この中佐との関係があると考えて、調べてみることにします。

「中村男墓」@旧大津陸軍墓地2007/11/18

「中村節男墓」の右隣にあるのが、「中村男墓」です。
姓も同じだし、隣あわせですから、関係があるはずです。
 草場、今屋という二人の連隊長が、縁戚の墓碑をこの地(Mブロック)においていることから、中村無一という日露戦争(1904~1905年)に出征した連隊長の縁戚ではないかと、考えられます。

●中村節夫=明治35(1902)年2月25日没

●中村男 =明治38(1905)年1月日没
  (明治28とも読めないわけではないが)

このふたりの没年から考えても、勝手な想像ではない気がします。
ところで、「中村男」というのは、どういう名前でしょうか?
息子という意味でしょうか?

「中村節男墓」@旧大津陸軍墓地2007/11/18

旧大津陸軍墓地のMブロック。
そこには、10柱が現存。
7柱が女性の墓碑。
残り3柱が男性の墓碑。
男性の墓碑のうち、一柱は、「草場三千雄」と刻まれていて、第九連隊長草場彦輔の縁戚と思われる人のもの。
残り二つには、ともに「中村」という姓が刻まれています。向かって、左にあるのが、この「中村節男墓」。
没年は、明治35年2月25日。

当然浮かぶべき名前でも、私には浮かびませんでした2007/11/17

 私が第九連隊について詳しくないために、墓石を最初に見た瞬間に浮かぶべき名前が浮かんでいなかったことがよくわかりました。
 私がもし、第九連隊の関係者ならば、「今屋」ときけば、わかったはずでしょうね。だって、連隊長ですから。しかも、連隊長なら、ここに縁戚の墓石を置くことにだれも異論を唱えることはできないはずです。

●旧大津陸軍墓地でかかわりを実見できる第九連隊長

 おそらく、一歳で亡くなった「今屋花子」は、今屋友次郎の43歳のときに生まれた娘なんでしょうね。孫・・・という可能性もないわけではないでしょうけれど。孫だったら、ここに葬る必然性はないと思うのです。
 ということで、今屋友次郎を含めて、現在、4名です。以下、歴代の第九連隊長。


 1 竹下弥三郎
 2 津田正芳
 3 山口素臣
 4 高島信茂
 5 井戸順行 ←この人の墓碑が大津陸軍墓地にある
 6 高橋維則
 7 内藤正明
 8 田村怡与造
 9 草場彦輔 ←この人の墓碑が大津陸軍墓地にある
10 中村無一←村治昭の墓碑に登場する
11 岩田正吉
12 遠藤伸二郎
13 中村無一←同上
14 斎藤力三郎
15 木村捨馬
16 今屋友次郎←「今屋花子」の墓碑とかかわりがある
17 市川堅太郎
18 船橋芳蔵
19 木原仙八
20 斎藤徳匡
21 瀬戸口弥太郎
22 名越時中
23 中村半之助
24 舞 伝男
25 兼久幸一
26 片桐護郎
27 古閑 健
28 河越重定
29 上島良雄(戦死)
30 武智 漸(戦死)
31 神保保孝(戦死) .

歩兵第九連隊長 今屋友次郎2007/11/17

明治44年12月02日に、歩兵第九連隊長 今屋友次郎が書いた機密書類が残っています。

密受第五七四号
歩九教甲第四三号
軍事密第四七三号
外国武官成績ノ件報告
明治四十四年十二月二日 歩兵第九連隊長 今屋友次郎
陸軍大臣男爵 石本新六殿
外国武官成績別紙ノ通及報告候也
外国武官成績報告書
佛国参謀科 歩兵大尉 ド、ラポマレード
明治四十三年十二月五日著隊後ハ連隊本部附ヲ命シ一般教育及内務ニ関シテハ概子其欲スルトコロニ従ヒ見学ノ便宜ヲ与ヘ其他諸教練諸演習ニハ常ニ之ニ出場シ一般将校ト同様之ニ従事セシメ就中饗庭野野営其他諸検閲並秋季演習ニ於テハ宿営給養等全然連隊本部ノ一員トシテ行動ヲ共ニセシメタルニ終始其取扱ニ対シ頗ル満悦ノ誠意ヲ表シ@孜々トシテ熱心誠實ニ従事シ未曽テ倦怠ノ状ヲ認メタルコトナク其研究心ノ旺盛ナル著眼点ノ適切ナル實ニ感スルニ餘リアリ 外国武官トシテ隊附勤務ニ関スル諸条規ノ恪守服行ニ・・・。

●今屋友次郎の経歴

慶応3年2月 生
明治20年7月21日 陸軍少尉
明治42年5月29日 陸軍歩兵大佐・歩兵第9聯隊長
大正1年11月30日 歩兵第30聯隊長
大正4年2月15日 陸軍少将・歩兵第12旅団長
大正6年8月6日 待命
大正6年12月1日 予備役
昭和20年4月 歿
 これでいくと、慶応3(1867)年生まれですから、花子が亡くなった明治43(1910)年では、43歳ですね。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)