お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日露戦争戦没者の墓碑の存否@大溝町勝野~戦死者と戦病死者の扱いの違いという問題~ ― 2010/10/30
民間墓地に戦死者・戦傷死者・戦病死者の墓碑を建てることに公の許可が必要だったのかどうか。日露戦争では、国家が個人墓碑を建てることができないくらい膨大な戦没者を出しました。それ以後は、個人墓地は、民間墓地でしか見ることはできません。公が補助金を出したのかどうか、までは確認できていません。
それはそれで調べてみることにします。
ところで、旧高島郡で日露戦争の戦没者の墓碑を探し求めているときに、見つけた名簿。おなじ「大溝町勝野」の戦没者は6名でした。共同墓地が中野墓地一つだと考えると、3名の墓碑はありますが、残り3名の墓碑はありません。なぜなんでしょうか?
これが偶然ではないとすれば、それは、戦死なのか、戦病死(事故死)なのかという違いが、影響を及ぼしていると考えられるのですが、いかがでしょうか。
それはそれで調べてみることにします。
ところで、旧高島郡で日露戦争の戦没者の墓碑を探し求めているときに、見つけた名簿。おなじ「大溝町勝野」の戦没者は6名でした。共同墓地が中野墓地一つだと考えると、3名の墓碑はありますが、残り3名の墓碑はありません。なぜなんでしょうか?
これが偶然ではないとすれば、それは、戦死なのか、戦病死(事故死)なのかという違いが、影響を及ぼしていると考えられるのですが、いかがでしょうか。
中野墓地に墓碑がある3名これらの若者の墓碑は、すでに紹介しています。
○山田 與三郎 大溝町大字勝野
明治38年3月2日 角面堡=戦死
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○竹下 伊三郎 大溝町大字勝野
明治38年3月4日 来神堡=戦死
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○萬木 音吉 大溝町大字勝野
明治38年3月8日 小貴興堡=戦死
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
中野墓地に墓碑がない3名旧高島町中野墓地には、日清戦争の戦没者の巨大な墓碑が1基あります。しかし、その若者の死に様は、戦死ではなく、戦病死にあたります。日清戦争は区別がなく、日露戦争では区別が生まれたということなのでしょうか。 上の写真は中野墓地の入り口付近。大きな墓碑が日清戦争の墓碑(「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」)、左に見える背の高い3柱が日露戦争の墓碑。
○仁賀 富蔵 大溝町大字勝野
明治38年4月15日 遼陽兵站病院(病死)
○和治 庄蔵 大溝町大字勝野
明治37年7月30日 小倉予備病院(病死)
○仁賀 半兵衛 大溝町大字勝野
明治38年9月11日 佐世保港三笠艦遭難(事故死)
コメント
_ やつしろ ― 2010年10月31日 06時36分50秒
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月31日 09時36分12秒
私の場合は、仕事のなかで、墓地を見つけては後日見学に行くというパターンになっています。ですから、見つからないのでしょうね。地元の詳しい方の知識が得られて、心強い限りです。姓からの判断は、とても思いつきませんでした。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
高島市内(他もそうでしょうが)の墓地は、基本的には点在しています。
大字田中という広い地域に一つの墓地・・・田中共同墓地・・というのは珍しい例です。
だから、大字勝野の中でも、仁賀、和治、仁賀姓の墓は、中野墓地には無いと断言できます。