お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
『陸軍墓地が語る日本の戦争』(小田康徳、横山篤夫、堀田暁生、西川寿勝編著)ミネルヴァ書房 ― 2007/10/07
小田康徳教授から贈っていただいたのが、この本です。
このような多面的な角度からのアプローチは個人では
できません。
大津市でも集団をつくる必要を痛感しました。
精読はこれからですが、求めるものの答えをいくつか
見つけることができました。
このような多面的な角度からのアプローチは個人では
できません。
大津市でも集団をつくる必要を痛感しました。
精読はこれからですが、求めるものの答えをいくつか
見つけることができました。
大津陸軍墓地の起点はいつか ― 2007/10/07
靖国神社とちがい、陸軍墓地はより実際的な必要から建設されるようです。
たとえば、小田康徳教授は、つぎのように書いています。
『明治四年わが国ではじめて大阪真田山の地に兵隊埋葬地が創設されるのも、明治三年十二月兵学寮生徒が死亡したことを直接のきかけとするものであったと思われる』(「陸軍墓地が語る日本の戦争」ミネルヴァ書房4ページ)
つまり、そこに兵隊の訓練施設があるかぎり、死亡するものが出たときに、葬る場所が必要になるということです。全国から来ている場合、送り返すことができないことも背景にあると思われます。
大津市ではどうか。
●第九連隊の営所となる明治八年が起点となる
明確に、大阪鎮台第九連隊が編成され、それが大津営所に移動してきたことを基点とするはずです。具体的には、明治八(1875)年のことです。
いろいろ墓石を見ていくと、入隊してごくわずかな期間に死亡(病死など)した例が見られます。
となると、明治八年からそういう必要が生まれたのではないでしょうか?
たとえば、小田康徳教授は、つぎのように書いています。
『明治四年わが国ではじめて大阪真田山の地に兵隊埋葬地が創設されるのも、明治三年十二月兵学寮生徒が死亡したことを直接のきかけとするものであったと思われる』(「陸軍墓地が語る日本の戦争」ミネルヴァ書房4ページ)
つまり、そこに兵隊の訓練施設があるかぎり、死亡するものが出たときに、葬る場所が必要になるということです。全国から来ている場合、送り返すことができないことも背景にあると思われます。
大津市ではどうか。
●第九連隊の営所となる明治八年が起点となる
明確に、大阪鎮台第九連隊が編成され、それが大津営所に移動してきたことを基点とするはずです。具体的には、明治八(1875)年のことです。
いろいろ墓石を見ていくと、入隊してごくわずかな期間に死亡(病死など)した例が見られます。
となると、明治八年からそういう必要が生まれたのではないでしょうか?
大津陸軍墓地のはじまりが明治8年なら、なぜ明治5年の墓があるのか? ― 2007/10/07
●明治5年没の墓石は移設にちがいない
大津に軍事基地を建設することは、明治7(1874)年に決定され、工事が始まり、大阪鎮台第九連隊が移動していたのが、明治8(1875)年のことです。
営所と一体に、墓地が整備されたと考えるのが自然であり、当然のことです。
ところが、大津陸軍墓地には、六鎮台制になる前の、大阪鎮台小浜第一分営の兵の墓石が5つあるのです。それらは、明治5(1871)年没年のものばかりです。
小浜第一分営は、明治4(1870)年12月に火事で消失。その代わり、彦根城に移転します。この彦根の屯所で死亡したものです。
この5つのお墓は移設されたにちがいないと考えました。
●いつ移設されたのかという問題
情報公開で入手したバイパス工事にともなう旧大津陸軍墓地の調査結果で、移設の事実も時期も明確になりました。
●バイパス前の第3段の位置から判明
明治5年没の五つの墓は、バイパス工事で移転を余儀なくされた場所にありました。第3段目の東側。
移転のために、墓碑の場所と没年が記入されている図があります。
上の写真はその一部ですが、明確なオーダーのもとに配列されてありました。つまり、上の行から下の行へ、同じ行でも右から左へ順番に並べられているということです。
明治5年の5つの墓の前後を見ればいいのです。
そうなると、明治40(1907)年5月から明治43(1910)年6月の間ということになりますね。
大津に軍事基地を建設することは、明治7(1874)年に決定され、工事が始まり、大阪鎮台第九連隊が移動していたのが、明治8(1875)年のことです。
営所と一体に、墓地が整備されたと考えるのが自然であり、当然のことです。
ところが、大津陸軍墓地には、六鎮台制になる前の、大阪鎮台小浜第一分営の兵の墓石が5つあるのです。それらは、明治5(1871)年没年のものばかりです。
小浜第一分営は、明治4(1870)年12月に火事で消失。その代わり、彦根城に移転します。この彦根の屯所で死亡したものです。
この5つのお墓は移設されたにちがいないと考えました。
●いつ移設されたのかという問題
情報公開で入手したバイパス工事にともなう旧大津陸軍墓地の調査結果で、移設の事実も時期も明確になりました。
●バイパス前の第3段の位置から判明
明治5年没の五つの墓は、バイパス工事で移転を余儀なくされた場所にありました。第3段目の東側。
移転のために、墓碑の場所と没年が記入されている図があります。
上の写真はその一部ですが、明確なオーダーのもとに配列されてありました。つまり、上の行から下の行へ、同じ行でも右から左へ順番に並べられているということです。
明治5年の5つの墓の前後を見ればいいのです。
そうなると、明治40(1907)年5月から明治43(1910)年6月の間ということになりますね。
旧大津陸軍墓地 : 下段東側をHブロック ― 2007/10/07
旧大津陸軍墓地 : 下段西側をJブロック ― 2007/10/07
旧大津陸軍墓地 : 移設前の中段中 ― 2007/10/07
旧大津陸軍墓地の兵の埋葬順序 ― 2007/10/07
バイパス開通前の配置が詳しくわかりました。
1976以前の状態に戻しながら、どういう墓地だったのかを
考えてみたいと思います。
いま考えられる墓石の建立順番について
下士官や将校の墓石は後にします。
●兵の墓石の埋葬順序もしくはブロックの建設順序
□明治八年から十年
どこに大津陸軍墓地で最初に立てられた兵の墓はどれか?
それは、大津市の地図ではA,私がFブロックと名づけたところに
あります(中段)。
墓碑から、明治八年没と読み取れる墓がそれです。
詳しい経歴が刻まれている墓碑もありますが、それからは、
明治9年没ということがわかります。
ですから、個々の墓石については、検討するにしても、
このブロックに最初の戦没者・病没者が葬られたと思います。
□西南戦争の戦死者の墓はあるのか?
実戦に投入され多大の犠牲者を出す西南戦争の
墓石はあるのか?
これはまだわかりません。
□西南戦争(明治10年)後の墓石はどこにつくられるか?
下段の上から順番につくられていきます。
道路をはさんで、西と東がありますが、道路をまたいで、
右から左に配置されていきます。
明治11年の墓石が最初です。
日清戦争ではじめての海外での実戦までは、
ここに葬られます。
□日清戦争・台湾戦争
明治28(1894)年以降、日清戦争が起こります。
しかし、第九連隊が投入されるのは、明治29(1895)年の
4月以降。台湾征服戦争が主です。
ここでそれまでになかった多数の死者が生まれます。
それは、下段に葬られずに、特別のブロックがつくられます。
それが、大津市ではC、私がEと名づけたブロックです。
□日清戦争以降
日清戦争の犠牲者を中段の特別の場所に葬ったあと、
またまた下段にもどって、上から下へ、右から左へという
秩序にしたがって、墓石が増えていきます。
□日露戦争の戦死者はどこへ?
日清戦争とちがい、はるかに大きな死者を出しましたから、
個人の墓ではなく、4つの階級別の追悼碑が造られます。
そのために、個人の墓はほとんど見受けることができません。
いずれにしても、大正に入っても、下段に順番に葬られます。
したがって、下段はどんどん下のほうにその墓地を広げて
いったといえます。
□
1976以前の状態に戻しながら、どういう墓地だったのかを
考えてみたいと思います。
いま考えられる墓石の建立順番について
下士官や将校の墓石は後にします。
●兵の墓石の埋葬順序もしくはブロックの建設順序
□明治八年から十年
どこに大津陸軍墓地で最初に立てられた兵の墓はどれか?
それは、大津市の地図ではA,私がFブロックと名づけたところに
あります(中段)。
墓碑から、明治八年没と読み取れる墓がそれです。
詳しい経歴が刻まれている墓碑もありますが、それからは、
明治9年没ということがわかります。
ですから、個々の墓石については、検討するにしても、
このブロックに最初の戦没者・病没者が葬られたと思います。
□西南戦争の戦死者の墓はあるのか?
実戦に投入され多大の犠牲者を出す西南戦争の
墓石はあるのか?
これはまだわかりません。
□西南戦争(明治10年)後の墓石はどこにつくられるか?
下段の上から順番につくられていきます。
道路をはさんで、西と東がありますが、道路をまたいで、
右から左に配置されていきます。
明治11年の墓石が最初です。
日清戦争ではじめての海外での実戦までは、
ここに葬られます。
□日清戦争・台湾戦争
明治28(1894)年以降、日清戦争が起こります。
しかし、第九連隊が投入されるのは、明治29(1895)年の
4月以降。台湾征服戦争が主です。
ここでそれまでになかった多数の死者が生まれます。
それは、下段に葬られずに、特別のブロックがつくられます。
それが、大津市ではC、私がEと名づけたブロックです。
□日清戦争以降
日清戦争の犠牲者を中段の特別の場所に葬ったあと、
またまた下段にもどって、上から下へ、右から左へという
秩序にしたがって、墓石が増えていきます。
□日露戦争の戦死者はどこへ?
日清戦争とちがい、はるかに大きな死者を出しましたから、
個人の墓ではなく、4つの階級別の追悼碑が造られます。
そのために、個人の墓はほとんど見受けることができません。
いずれにしても、大正に入っても、下段に順番に葬られます。
したがって、下段はどんどん下のほうにその墓地を広げて
いったといえます。
□
宵宮でカミさんが買ったもの ― 2007/10/07
商店街のなかに、山車がおかれています。
商売熱心なお店は、いろんな品を置いています。
なんかおいしいものはないかと探して、
カミさんが息子たちのために、なにかを買いました。
それは、あんこの入った餅麩です。
和菓子をちゃんと食べてくれるでしょうか?
商売熱心なお店は、いろんな品を置いています。
なんかおいしいものはないかと探して、
カミさんが息子たちのために、なにかを買いました。
それは、あんこの入った餅麩です。
和菓子をちゃんと食べてくれるでしょうか?
笹の葉に包まれた「餅麩(もちふ)」 ― 2007/10/07
宵宮でお土産に買ったのは「餅麩」
やわらかいし、ウェットな状態で
笹の葉にくるまれています。
中にアンコが入っているものを選びました。
試食用にたくさんおいてありましたが、
それを食べて、決まりでした。
やわらかいし、ウェットな状態で
笹の葉にくるまれています。
中にアンコが入っているものを選びました。
試食用にたくさんおいてありましたが、
それを食べて、決まりでした。
栗おいしい! ― 2007/10/07
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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