お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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西南戦争の戦死者(大阪鎮台軍の)はどこに、どうして葬られているか?2007/10/09

●近代日本が経験した最大規模の内戦

それが西南戦争(西南戦役)でした。

明治維新の元勲であり、
最高の軍事指導者であった西郷隆盛と
封建軍隊のなかで最強といわれた
薩摩藩の士族を相手に、できたばかりの
明治政府の鎮台軍とが
半年間にわたって戦い抜いた内戦でした。

●両軍で一万人をこえる死者

西郷軍の詳細は記録に残っていません。
約3万の兵力。60門の大砲。そして、約5000名の死者。
官軍は、陸軍だけで、55個大隊、58,558の兵。
戦死者・戦病死者は、6,843名。
合計で、一万人を大きく超える犠牲者を生んだのです。

これらの死者をどう葬るかという問題が出てきます。
(現地にも墓地ができていますが)

●大阪鎮台軍の犠牲者

なかでも師団(鎮台)単位で見れば最多の犠牲者を
出したのが、第四師団(大阪鎮台)でした。
即死しなかった兵士は、
大阪設けられた臨時病院へ運ばれました。
そこで息を引き取った兵士も多数に上りました。
しかも、この病院には、大阪以外の師団の
兵士も多数運び込まれたようです。

●大津第九連隊

大津にあった大阪鎮台第九連隊は、441名の死者。
大阪鎮台軍のなかで
もっとも犠牲者が多かった連隊でした。

それらの死者はどこに、どのように眠っているのか。
これが私が知りたかったことです。
ここ、旧真田山陸軍墓地なのでしょうか?


ちなみに西南戦争については、このサイトを参考にしました。

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-seinan.html

生々しく残る内戦の傷跡2007/10/09

「鹿児島賊徒征討之役」(西南戦役のこと)と刻まれた墓石
大阪玉造にある旧真田山陸軍墓地。
そこには、
将校・下士官、兵を問わず、
西南戦争の血なまぐさい苛烈さが
墓石のなかに刻まれていました。

「西南役」と書かれるべきところが
そうはなっていません。
つぎのように書かれてあります。

「鹿児島県賊徒征討之役」

賊徒の討伐戦だったという
戦った一方(官軍)の見解が
墓碑に、永劫刻まれているわけです。

後年になって、
これはあんまりだと、鹿児島県からの見学者が
訂正を要求したのも理解できますね。

造った官軍の敵意むきだしの墓碑です。

上の写真をクリックしてください。
文字で確認していただけると思います。

『鹿児島県賊徒征討之役』2007/10/09

『鹿児島県賊徒征討之役』(西南戦争)と刻まれた墓碑
旧真田山陸軍墓地の下士官・将校の
墓碑が眠るブロック。

ここにも、
『鹿児島県賊徒征討之役』という文字は、
刻まれています。

西南戦争で亡くなった熊本鎮台二等兵の墓碑2007/10/09

西南戦争で亡くなった熊本鎮台二等兵の墓碑
大阪玉造にある旧真田山陸軍墓地
そこを案内していただいた吉岡さんは、
「ここは全国区ですから」とおっしゃっていました。
つまり、全国の鎮台、師団の将校、下士官、
兵の墓があるということです。

この墓石は、熊本鎮台の兵のものです。
西南戦争で倒れたことが具体的に記されています。
田原山と書かれていますが、有名な田原坂の
戦いで戦死したのでしょうね。
日付がそれを示しています。

負傷して、大阪の臨時病院に運ばれ、そこで死亡。
故郷郷に運ばれることなく、
ここ真田山陸軍墓地に葬られているのです。
『鹿児島県賊徒征討之役』という文言とともに。

西南戦争で亡くなった陸軍中尉の墓碑2007/10/09

西南戦争で戦死した陸軍中尉の墓碑
これは真田山陸軍墓地に眠る
西南戦争で倒れた陸軍中尉の墓碑。

やはり、『鹿児島県賊徒征討之役』という文言が
ついています。

個人が建てた碑には『西南之役』の文字が2007/10/09

『鹿児島県賊徒征討之役』ではなく『西南之役』と刻まれた将校の墓碑
真田山陸軍墓地で、西南戦争の墓碑を見ながら、
『鹿児島県賊徒征討之役』と書かれた墓碑に
つらい思いを持ちました。
死んだあとも現世の対立を背負っていく
わけですから・・・ということです。

陸軍当局がつくってのではない墓碑もあります。
話を聞くと、下士官、兵は場所はもちろん墓碑も
陸軍が造ります。
しかし、将校クラスは土地だけで、あとは個人もち。
したがって、墓碑銘もその個人も裁量の範囲と
なるのでしょうか。

上の写真の墓碑には、『西南之役』と
刻まれていますが、そういう事情があったのかも
知れません。

真田山陸軍墓地から大津陸軍墓地を見る2007/10/09

緑に囲まれた旧大津陸軍墓地
●調査の遅れという問題

 旧真田山陸軍墓地の場合、1997か98年ごろに公的学術機関による調査が行われています。その調査がきっかけとなって、NPOへと発展していった経過があります。
 調査は、詳細な報告書に結実しています。
吉岡さんは「調べただけなのか」という思いをもったとおっしゃっていましたが、調べるだけではなく、保存し、また市民的な財産としていく努力なくしては、意味がないのです。
 それはともかく、旧大津陸軍墓地の場合、それほど大規模な専門的調査が行われたということを知りません。
 したがって、そういう文書も見当たりません。
 実態調査という点だけをとっても、それだけ遅れているのです。

●真田山を前提にして大津を見る

 関西の場合、真田山に全国的な規模の墓地があり、それを前提にして、その他の陸軍墓地が成り立っているのではないでしょうか。
 西南戦争の墓碑(明治10年以降)のことですが、砂岩を素材にした規格どおりの大きさの墓碑が、将校のものも、兵のものも、真田山墓地にはありました。
 ところが大津陸軍墓地には、西南戦争の犠牲者の墓として、規格どおりの砂岩の墓碑はないと思います。
 大津第九連隊の441名の戦死者の個人墓碑はひとつもないのでしょうか?それとも、真田山に眠っているのでしょうか?
 「紀念碑」として、大津市三井寺の御幸山に立つ記念碑だけなんでしょうか?
 そういう疑問もわいてきます。

●『鹿児島県賊徒征討之役』か『西南之役』か

  もう一度、大津陸軍墓地で探してみることにしました。

 西南戦争の戦死者・戦病死者の個人墓碑は存在するのか、
 存在するとすれば、上のどっちの記述がされているのか。

 とても、興味深いものです。


*上の写真は、旧大津陸軍墓地。
  1976年以前は、三段構造。
  以後は一部移設されて二段に。
  上段から下段にむかう中央の道から
  下段を撮影しています。
  緑がいっぱいの9月はじめの写真です。

大津陸軍墓地で西南戦争の個人墓碑があるとすれば、Fブロックだ2007/10/09

大津陸軍墓地の旧中段「西側」(大津市保管文書)
●中段西側

上の図は、大津市が保管している文書で、
バイパス工事による移設のために調査し、作成された図です。

「A」と書かれている場所は、私が「Fブロック」としているところ。
  ここが、最も旧く造られた墓地と思われる場所です。

ちなみに、
「C」は、Eブロック(日清戦争・台湾征服戦争の戦死者)
「D」は、Dブロック(明治から大正へかけての下士官の墓碑)

●西南戦争の個人墓碑があるとすればここ

上段、中段、下段と分かれていた旧大津陸軍墓地。
上段は、将校。
下段は、明治11年から第一次世界大戦までの個人墓碑。
     (日清戦争を除く)
中段は、下士官と日清戦争の個人墓碑。
      そして、もっとも旧いとおもわれる37柱からなる
      A=Fブロック。

このFブロックで、
西南戦争の戦死者の個人墓碑を
探して見ることにしました。

『鹿児島県賊徒征討之役』という文言か
それとも『西南之役』か、注目されます。

(以前と同じ図がアップされていましたが、
 ・・・必要なのでご容赦ください)

大津陸軍墓地で『西南之役』の文言のある個人墓碑を発見2007/10/09

大津陸軍墓地で『西南之役』の文言がある個人墓碑
Fブロックの墓碑で、
詳しい経歴の書いてある側面は
晴れた日の午後でしか、
鮮やかに読み取ることができません。

午前11時ごろから午後1時にかけて
Fブロックにある37の墓碑の
すべてを三つの側面から撮影してきました。

そのとき、たったひとつ見つけたのです。
『西南之役』という文言がはいった墓碑を。

それがこれです。

真ん中の行の上から二つ目の文字以降です。
読めるでしょうか?

まちがいないとわかったとき、
さすがに興奮しました。

ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)Argyreus hyperbius2007/10/09

ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)Argyreus hyperbius
 ある方のブログ(黙って配れ http://alt-west-eight.asablo.jp/blog/)が興味深く、ていねいに読んでいました。
 そうすると、私の写真と同じものを写した写真(虫や花など)がたくさん出てきました。それらの写真は、本文とはあまり関係ないものでしたけれど。

 たとえば、チョウ。
 名前を調べてきちんと書いてありました。
http://alt-west-eight.asablo.jp/blog/2007/10/06/1839188

 私の場合、名前も調べないで、アップして満足していますが、
 この方のブログのように名前があると、
 きちんとした情報になりますね。

 自分は無責任な日記を書いているなぁと反省しました。

 ともかく、今日、 自分の撮ったチョウの名前が
 「ツマグロヒョウモン」とわかったというわけです。

早速名前で検索して、調べることができました。
そして、これは模様からメスだとわかりました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)