お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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台湾征服戦争の墓碑はまれ2007/10/23

旧大津陸軍墓地Eブロック。右側面を正面にして撮影。
旧大津陸軍墓地で最多の墓石があるEブロック。
ざっと目を通しましたが、明治二十八年四月から翌二十九年にかけてのものばかりです。つまり、このブロックには、広義の(台湾征服戦争を含む)日清戦争の期間に亡くなった兵の墓碑が並んでいるのです。

●私の予想は台湾征服戦争の戦死者の墓碑が主

私は、これらは戦死者の墓石だと考えていました。
 第九連隊は、戦場に召集されたのが遅く、日清戦争の戦闘に参加しないまま帰国しています。ところが、その直後に、命令が下り、台湾征服戦争へ駆り出されていきます。
 Eブロックは、この台湾征服戦争で戦死した方の墓碑だと思ったのです。

●事実は、明治二十八年がほとんど

 墓石の右側面に亡くなった日付と場所が刻まれています。
 それを一つ一つ読んでいって驚きました。
 台湾で亡くなった方の墓石はごくまれなのです。200を超える墓碑のなかで数基もないのです。

●遼東半島駐屯時代の死者の墓碑

となると、このEブロックに眠るのは、休戦条約の締結後、遼東半島駐屯時代の病死者ということになります。
 上の写真は、墓碑の右側面が写っています。二、三の例外(墓碑を並べまちがいだと思われます)を除いて、死んだ日付と場所が刻まれています。
 それ以前の墓石のように出身地などが省略されています。それだけ、一度に墓石をつくる必要があったということです。
 
●正規の戦闘がないのにどうして、これだけの死者が?

私は、病死と簡単に言いましたが、その直接の根拠はないのです。

「日本兵士の真の敵は悪疫だった」2007/10/23

 岩波新書の『日清戦争』(藤村道生 1973)に、日清戦争の被害について述べているページがあります。
 特徴的なことは、戦死者や戦傷による死者に比べて、病死者の数が異常に多いことです。
 とくに、講和条約が発効されたあとの病死者が極端に多いのです。

●1894年7月25日~1895年5月30日(狭義の日清戦争)
 戦 死    736人
 傷 死    228人
 病 死  1,658人 
 変 死     25人
 合 計  2,647人

●1895年5月31日~11月30日
 戦 死    396人
 傷 死     57人
 病 死 10,236人
 変 死    152人
 合 計 10,841人

上の本の184ページには、つぎのように書かれています。

『日本の兵士の真の敵は悪疫だった。予防体制ができておらず、衛生設備が悪かったので、非常に多くの人が病死した。出征中入院加療をうけたものは延十七万人に達し、うち重症で内地に後送された者は海外派遣者の約三分の一にあたる六万七六○○名に達した。入院患者延一七万名のうち、戦闘による傷痍者は四五一九名にすぎず、他は赤痢、マラリヤ、コレラなどの伝染病かあるいは脚気であった。衛生の軽視は莫大な人命の犠牲をうんだのである。』

日清戦争へ宇品から出帆した日(1895年4月11日)に亡くなった兵の墓石2007/10/23

日清戦争で、戦地に到着するまでに死亡した兵の墓石
旧大津陸軍墓地のEブロックは、207柱。
いくつかあるブロックのなかで、
最多の墓石がならんでいます。

それは、日清戦争で亡くなった兵の墓地です。
墓石はどれも画一的です。正面に階級と名前。
右側面に、死亡年月日と死亡場所。

●死亡場所のない墓碑

この墓石は、そのひとつ。
正面に向かって、二列目にあります。

この墓碑には、死亡年月日はあっても、
死亡場所が書いてありません。
不思議に思いました。

「明治二十八年四月十一日歿」とだけ
刻まれています。

●昭和17年版大津市史で確認

第九連隊の行動日誌を見ると、
この日は、日本の宇品からいよいよ戦場に
出航した日にあたっています。
船でなくなったのか、それとも、
大津営所か、営所から宇品への途中か。
いずれにしても、大陸に上陸する前に
亡くなった兵の墓石だとわかります。

大津営所から出発して8日目(1895年4月6日)、大陸に向かう前に亡くなった兵の墓石2007/10/23

大津から出征して8日目、大陸に向かう前に病死した兵士の墓石
日清戦争の墓石が並ぶ旧大津陸軍墓地Eブロック。
墓石の右側に刻まれている死亡年月日と場所を
一つ一つ見て回りました。

またひとつ死亡場所の記入がない墓石がありました。

「明治三十八年四月六日歿」とだけ書かれています。

●大津営所から出征して8日目

第四師団大津第九連隊が、大津営所から
戦場にむけて出発するのが、1895年3月28日。
宇品から大陸へ出航するのが、4月11日です。

死亡した兵士の場所がない理由はなんでしょうか。
さきの墓碑と共通しているのは、大陸に到着前と
いうことです。
それにしても、大津なら大津、宇品なら宇品と
書けばいいのにと私は思います。
この点が名誉を重んじる軍隊と違うのかも知れません。

いずれにしても、大津を出てから(出征したと仮定して)
8日目、宇品から出航する5日前にこの兵士は、
死亡したのです。
戦死でないのは明らか。病死だといえます。

旧大津陸軍墓地Eブロックについての中間メモ2007/10/23

日清戦争時期の兵の墓地に例外的に存在する士官候補生の墓石
●台湾征服戦争時期の墓石はわずか2基

207基の墓石が整然とならぶ
旧大津陸軍墓地のEブロック。

そのなか、台湾征服戦争の時期に亡くなった兵の
墓石は、わずか2基しかないことがわかりました。

●残余は、中国本土でなくなった兵の墓石

残りの204柱は、日清戦争の遂行のために、
中国大陸へ渡った兵、もしくは
渡ろうとして途中で亡くなった兵の墓碑でした。

●例外的に存在する士官候補生の墓石

実は、もう1基、士官候補生のものがあります。
(上の写真)
ぬきんでて背が高い墓石です。しかも、
ひとつの柱で兵の6柱分のスペースを占領。

明治30年9月23日歿とあります。
場所はうまく読めないのですが、
「於東京」でしょうか?短い地名です。

この墓石がなぜここにあるのか謎です。
まず、階級がちがう、それに死亡時期がちがう。
これは、このEブロックの建設時期とも
かかわってきます。
最初から、この墓石を含めて建設したなら、
明治30年9月23日以降ってことになりますから。

●墓石の配置はオーダーなし?

墓石は、埋葬の規則とういものがあると思います。
奥から手前へ、また右から左へと旧い順に。
しかし、このEブロックは死亡年月日という
オーダーに従っていません。
バラバラです。

●第九連隊の行動を墓石で追跡

大変気の毒なことですが、第九連隊の
行動記録を墓碑銘で追跡してみたいと
思います。
その場合、どうも合致しないと思われる
墓碑があります。
たとえば、死亡年月日のときには、
大陸に到着していないと思われるのに、
死亡場所は、大陸の地名とか。

合致しないのは、あとで考えるとして、
記録を裏書できる墓石で追跡します。

遼東半島の地図で場所を確認2007/10/23

遼東半島の地図(国立公文書館アジア歴史センターのサイトより)
「(陸軍歩兵第九)連隊は(三月)二十八日(大津の)屯営を発し、四月十一日宇品を解纜して愈々出征の途に上った。十六日大連に入り、二十二日柳樹屯に上陸」と、昭和17年版の「大津市史」中巻に書かれています。

地図で場所を確認することにします。

国立公文書館アジア歴史センターは、豊富な資料を公開しています。そこの用語集から、地図を借りて、見ることにします。

大連は、遼東半島の先端にある都市。
旅順や水師営も付近にあります。

柳樹屯の位置2007/10/23

上の図は、日露戦争のときのもの。
柳樹屯の位置がわかる。
必要なのでネットから借用した。


http://ww1.m78.com/index.html

柳樹屯上陸前に(1895年4月17日)旅順口で亡くなった兵士の墓碑2007/10/23

柳樹屯上陸前に(1895年4月17日)旅順口で亡くなった兵士の墓碑
●1985年4月22日柳樹屯に上陸

 日清戦争で、大津に営所をもつ陸軍歩兵第九連隊は、明治28(1895)年3月28日に出征。4月11日に広島の宇品港を出港して、遼東半島を目指します。大津市史によれば、4月16日に大連に入り、22日に柳樹屯に上陸とあります。大連は一時的に滞在ということでしょうか?

●1985年4月17日

上の墓碑には次のように刻まれています。

明治二十八年四月十七日於旅順口歿

いずれにしても、宿営地に落ち着く前に、亡くなったのです。

●死亡原因

原因は、わかりません。
どの墓碑も、詳しい死亡の様子は刻まれていないのです。

柳樹屯上陸前に(1895年4月21日)大連湾で亡くなった兵士の墓碑2007/10/23

柳樹屯上陸前に(1895年4月21日)大連湾で亡くなった兵士の墓碑
大津市史(昭和17年版)では、1895年4月11日に日本本土を出航したあと、4月16日に大連に入ると書かれています。その後、22日に柳樹屯に上陸とあります。
 この4月16日から22日の間に亡くなった兵士の墓碑がいくつかあります。そのひとつです。

●明治28(1895)年4月21日

墓碑銘を読むと、
明治二十八年四月二一日於大連湾歿
とあります。

大連湾というのは、船中で没したということでしょうか。

ヨウシュヤマゴボウ(10月6日)2007/10/23

まだ緑のヨウシュヤマゴボウ
草花の名前は、カタカナだと、
舌をかみそうだし、区切りが
わからない場合がおおい。

”洋酒山ごぼう”かと思ったら、
正解は、「洋種山牛蒡」

これも、にゃこりんさんに教えてもらった。

10月6日には、まだ緑。
ネオマスカット色である。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)