
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ランタナ ― 2007/10/25
コムラサキ ― 2007/10/25
天使のトランペットが溶けるとき ― 2007/10/25
遼東半島で赤痢で病死(1895年9月1日)した陸軍歩兵一等卒竹村安治郎 ( 26歳)の墓石 ― 2007/10/25
日清戦争に出征を求められた陸軍歩兵第九連隊。大津を出発する明治28(1895)年3月28日から、ふたたび戻る12月30日までの9ヶ月間に、200名以上の死者を出しています。
それらは、正規の戦闘によって死亡したわけではありません。
遼東半島に到着したときには、すでに休戦協定は成立し、やがて講和条約締結となります。第九連隊は、第三軍への所属を解かれ、遼東半島の守備をまかされ、12月に帰還が許されるのです。
旧大津陸軍墓地に、207柱の墓碑が並ぶEブロックが、1柱の例外(士官候補生)と台湾での死亡者(2柱)を除く204柱が上に述べた期間の死亡者です。
ところが、墓碑は死亡年月日と場所は刻まれていますが、原因は書かれていません。
その原因を求めて、明治44年版『大津市志』に答えを探しました。
●明治44年版『大津市志』
ここには、大津市(合併前)の死亡者として、太田末次郎、井上友次郎、竹岡安治郎、大橋卯三郎の4名の名前があげられています。
これらの名前の墓石が、大津陸軍墓地のEブロックにあるのかどうか調べてみました。
●陸軍歩兵一等卒 竹村安治郎
まず、見つけたのがこの人でした。
墓石は、「明治二十八年九月1日於大弧山歿」と刻まれています。
これは、『大津市志』と一致します。
大津市志は、つぎのように記述しています。
大津市石川町六十八番屋敷
陸軍歩兵一等卒 竹村安治郎
明治二年二月四日生
明治二十二年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し、二十七八戦役従軍。赤痢病に罹り明治二十八年九月一日清国大弧山兵站病院に於て死亡。同年十一月十八日従軍記章授与せられ、同二十九年五月靖国神社に合祀せらる。
●赤痢が原因
上で見たように、赤痢とかかれています。
ちなみに、残りの人たちはどうでしょうか?
陸軍歩兵軍曹 太田末次郎 10月16日死亡 腸チフス
陸軍歩兵上等兵 井上友次郎 4月29日死亡 腸カタル
陸軍歩兵一等卒 大橋卯三郎 9月13日死亡 マラリヤ
場所は、順に、海城舎営病院、沙家屯舎病院、海城舎営病院
これらは、病院と名前はついていますが、前線の舎営に付属している病院ですから、立派な医療設備がある正規の病院ではないと思います。
それらは、正規の戦闘によって死亡したわけではありません。
遼東半島に到着したときには、すでに休戦協定は成立し、やがて講和条約締結となります。第九連隊は、第三軍への所属を解かれ、遼東半島の守備をまかされ、12月に帰還が許されるのです。
旧大津陸軍墓地に、207柱の墓碑が並ぶEブロックが、1柱の例外(士官候補生)と台湾での死亡者(2柱)を除く204柱が上に述べた期間の死亡者です。
ところが、墓碑は死亡年月日と場所は刻まれていますが、原因は書かれていません。
その原因を求めて、明治44年版『大津市志』に答えを探しました。
●明治44年版『大津市志』
ここには、大津市(合併前)の死亡者として、太田末次郎、井上友次郎、竹岡安治郎、大橋卯三郎の4名の名前があげられています。
これらの名前の墓石が、大津陸軍墓地のEブロックにあるのかどうか調べてみました。
●陸軍歩兵一等卒 竹村安治郎
まず、見つけたのがこの人でした。
墓石は、「明治二十八年九月1日於大弧山歿」と刻まれています。
これは、『大津市志』と一致します。
大津市志は、つぎのように記述しています。
大津市石川町六十八番屋敷
陸軍歩兵一等卒 竹村安治郎
明治二年二月四日生
明治二十二年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し、二十七八戦役従軍。赤痢病に罹り明治二十八年九月一日清国大弧山兵站病院に於て死亡。同年十一月十八日従軍記章授与せられ、同二十九年五月靖国神社に合祀せらる。
●赤痢が原因
上で見たように、赤痢とかかれています。
ちなみに、残りの人たちはどうでしょうか?
陸軍歩兵軍曹 太田末次郎 10月16日死亡 腸チフス
陸軍歩兵上等兵 井上友次郎 4月29日死亡 腸カタル
陸軍歩兵一等卒 大橋卯三郎 9月13日死亡 マラリヤ
場所は、順に、海城舎営病院、沙家屯舎病院、海城舎営病院
これらは、病院と名前はついていますが、前線の舎営に付属している病院ですから、立派な医療設備がある正規の病院ではないと思います。
遼東半島でマラリヤで病死(1895年9月13日)した21歳陸軍歩兵一等卒の墓石 ― 2007/10/25
わずか15柱のBブロック ― 2007/10/25
腸チフスで病死した陸軍歩兵一等軍曹太田末次郎(24歳で歿)の墓碑 ― 2007/10/25
例外的に死亡事情が刻まれている「陸軍歩兵特任曹長 長尾嵜常人之墓」 ― 2007/10/25
11・24見学会用に、これまで「旧大津陸軍墓地」について、わかったことをメモにしてみた ― 2007/10/25
今日は休日。考え抜く時間がある日。
旧大津陸軍墓地の見学会用の作業メモをつくる。
●どうしても感覚的に誤解しやすいこと
それは、「陸軍墓地」というものの性格。
Eブロックを調べていて、自分でも、ときどきこれを忘れる。
つい陸軍墓地と戦争を直接結びつけ、戦死者の墓地という角度から、物事を組み立てようとすること。
戦争→戦死→国事に殉じた英霊→靖国神社へ合祀
という流れとは別モノ。
戦争がなくても、軍隊は維持されている。平時でも病死する兵士も出てくる。そういう人は、英霊とはみなされず、靖国神社に合祀されることもない。ましてや自殺する兵士は、論外となる。
陸軍墓地は、どのような原因であったにしても、兵役中に亡くなった将兵を埋葬するところなのだ。・・・敵国の兵士すら(靖国神社の立場は、敵国は永久に敵国)。
各ブロックの性格・・わかったこと、不明なこと
●Aブロック
上段にある。一目で将校の墓地とわかる。しかし、配列がよくわからない。
それに、謎の墓碑がある。これは、小さなかまぼこ型だが、字が読めない。草書体なのだろうか?もともとあった軍とは無縁の墓碑なのか、それともなになのか、不明のままだ。
これを除外して、墓碑の年代ごとに、成立した姿を思い描くと、あっちにひとつ、こっちにひとつというように、バラバラに建立されたとしか思えない。
●Mブロック
上段にあり、将校の墓地と隣り合わせ。だが、陸軍地という標識(石)の外にある。だから、陸軍墓地とたまたま隣り合わせの土地かといえば、そうともいえない。軍に関係する女性の墓があるからだ。これは、全体が謎。
●Bブロック
中段にある日清戦争期に病没した14基の下士官・准士官の墓地。戦死者はないと思われる。だが、2名を除いて死亡原因がわからない。
これとは別にただ一基、不明の墓碑がある。死亡年月日も離れている。文字がうまく読み取れない。なぜ、ここに?という疑問もある。
●Cブロック
中段にある病死した下士官の墓地。まだ詳しく調べていない。墓碑がなく、石がおかれたところがある。もともと墓碑があったのじゃないだろうか。
それとは別に、まったくといっていいほど、読めない墓碑が隅っこにある。これら二つが謎。
●Dブロック
中段にある病死した下士官の墓地。Cとの違いがよくわからない。大正時代のものもあるので、順序からいくと、あとにできたもの。三列あるが、中の列が奥の列と向かい合うように建っている。つまり、奥と中は一体に建てられた。その外は、別ということになる。
十字架がついている墓碑がある。これは大きな特徴である。
●Eブロック
中段にある。日清戦争期に病没した兵士の墓地だろう。207基あるが、出征途中、もしくは遼東半島で亡くなった墓碑が204基、凱旋後ふたたび出征して台湾で亡くなった墓碑が2基ある。
なぞは、士官候補生の墓碑が1基だけあること。兵の墓碑6柱分のスペースをとっている。一体に配置されたものと考えられる。あとから、わざわざ、6つをどけて、ここに埋葬するだろうか?そんなことをせずともよいと思われる。死亡年月日は日清戦争が終わって一年後。この墓地の成立年代を考えるヒントになるかも。
●Fブロック
中段にある最古の墓地。明治八年から11年ごろまでの病死者の墓地だと思われる。37基ある。「西南の役」という文言を見つけたのは、ここ。
●Gブロック
中段にあるロシア人墓地。たった1基。この存在が旧大津陸軍墓地の値打ちを高めているように思える。かつてはがけっぷちにあったという。場所は同じでも、工事のために、平地の中に入り込んでいるように見える。
●KブロックとLブロック
かつては、陸軍墓地は上段・中段・下段と分かれていた。下段がバイパス工事のために、取り壊され、中段の西の谷を埋め立てて、現在の墓地がある。
基本的に、明治11年から大正十三年までの墓碑。下段にあったときは、真ん中の道をはさんで、東西にならんでいた。しかも、坂の上から順に葬られていった。つまり、年代と配置が明確だった。
これが、KブロックとLブロックに分割され、整列させられている。
どういうオーダーなのか、調査中。
●Kブロック
このブロックに、彦根に明治五年に駐屯していた「第十八大隊」の兵士の墓碑が5柱ある。下段のオーダーから推測して、明治40年代前半に彦根から大津に移設されたのではないかと思っている。
これも調査が必要だ。
見学会のために、奉賛会の奥村会長が、平尾神社の拝殿をかりていただいた。感謝。
旧大津陸軍墓地の見学会用の作業メモをつくる。
●どうしても感覚的に誤解しやすいこと
それは、「陸軍墓地」というものの性格。
Eブロックを調べていて、自分でも、ときどきこれを忘れる。
つい陸軍墓地と戦争を直接結びつけ、戦死者の墓地という角度から、物事を組み立てようとすること。
戦争→戦死→国事に殉じた英霊→靖国神社へ合祀
という流れとは別モノ。
戦争がなくても、軍隊は維持されている。平時でも病死する兵士も出てくる。そういう人は、英霊とはみなされず、靖国神社に合祀されることもない。ましてや自殺する兵士は、論外となる。
陸軍墓地は、どのような原因であったにしても、兵役中に亡くなった将兵を埋葬するところなのだ。・・・敵国の兵士すら(靖国神社の立場は、敵国は永久に敵国)。
各ブロックの性格・・わかったこと、不明なこと
●Aブロック
上段にある。一目で将校の墓地とわかる。しかし、配列がよくわからない。
それに、謎の墓碑がある。これは、小さなかまぼこ型だが、字が読めない。草書体なのだろうか?もともとあった軍とは無縁の墓碑なのか、それともなになのか、不明のままだ。
これを除外して、墓碑の年代ごとに、成立した姿を思い描くと、あっちにひとつ、こっちにひとつというように、バラバラに建立されたとしか思えない。
●Mブロック
上段にあり、将校の墓地と隣り合わせ。だが、陸軍地という標識(石)の外にある。だから、陸軍墓地とたまたま隣り合わせの土地かといえば、そうともいえない。軍に関係する女性の墓があるからだ。これは、全体が謎。
●Bブロック
中段にある日清戦争期に病没した14基の下士官・准士官の墓地。戦死者はないと思われる。だが、2名を除いて死亡原因がわからない。
これとは別にただ一基、不明の墓碑がある。死亡年月日も離れている。文字がうまく読み取れない。なぜ、ここに?という疑問もある。
●Cブロック
中段にある病死した下士官の墓地。まだ詳しく調べていない。墓碑がなく、石がおかれたところがある。もともと墓碑があったのじゃないだろうか。
それとは別に、まったくといっていいほど、読めない墓碑が隅っこにある。これら二つが謎。
●Dブロック
中段にある病死した下士官の墓地。Cとの違いがよくわからない。大正時代のものもあるので、順序からいくと、あとにできたもの。三列あるが、中の列が奥の列と向かい合うように建っている。つまり、奥と中は一体に建てられた。その外は、別ということになる。
十字架がついている墓碑がある。これは大きな特徴である。
●Eブロック
中段にある。日清戦争期に病没した兵士の墓地だろう。207基あるが、出征途中、もしくは遼東半島で亡くなった墓碑が204基、凱旋後ふたたび出征して台湾で亡くなった墓碑が2基ある。
なぞは、士官候補生の墓碑が1基だけあること。兵の墓碑6柱分のスペースをとっている。一体に配置されたものと考えられる。あとから、わざわざ、6つをどけて、ここに埋葬するだろうか?そんなことをせずともよいと思われる。死亡年月日は日清戦争が終わって一年後。この墓地の成立年代を考えるヒントになるかも。
●Fブロック
中段にある最古の墓地。明治八年から11年ごろまでの病死者の墓地だと思われる。37基ある。「西南の役」という文言を見つけたのは、ここ。
●Gブロック
中段にあるロシア人墓地。たった1基。この存在が旧大津陸軍墓地の値打ちを高めているように思える。かつてはがけっぷちにあったという。場所は同じでも、工事のために、平地の中に入り込んでいるように見える。
●KブロックとLブロック
かつては、陸軍墓地は上段・中段・下段と分かれていた。下段がバイパス工事のために、取り壊され、中段の西の谷を埋め立てて、現在の墓地がある。
基本的に、明治11年から大正十三年までの墓碑。下段にあったときは、真ん中の道をはさんで、東西にならんでいた。しかも、坂の上から順に葬られていった。つまり、年代と配置が明確だった。
これが、KブロックとLブロックに分割され、整列させられている。
どういうオーダーなのか、調査中。
●Kブロック
このブロックに、彦根に明治五年に駐屯していた「第十八大隊」の兵士の墓碑が5柱ある。下段のオーダーから推測して、明治40年代前半に彦根から大津に移設されたのではないかと思っている。
これも調査が必要だ。
見学会のために、奉賛会の奥村会長が、平尾神社の拝殿をかりていただいた。感謝。
「陸軍墓地」と「民間墓地」を歩いてみて(今後どうするかというメモ) ― 2007/10/25
気が向くままに調べている将兵の墓石の調査。
調査といえるほどのものでもないけれど。
●墓石が存在することの意味
将兵の墓石は、存在そのものによって、時を止め、過去を動かぬ現実としてわれわれの目の前に突きつける。だが、風雪は、石をも砕き、墓石が伝えたい記憶を、書かれた文字とともに、消し去ろうとしている。墓碑とつながる人々も、死に絶えようとしている。日露戦争ともなると、生きた記憶は、限界に達しようとしている。墓石は、自らが担ってきた役割を、これから引き継ぐ人間を求めている。
●墓石が語るもの
それは、不条理な死という事実である。将兵は、ほとんでが20代前半の若者である。死の状況を調べれば調べるほど、胸に迫る。もっとも人生が輝かしく思えるその時期に、命を絶っていった。それを繰り返すことは、許されないという思いである。
●失われる記録
陸軍墓地は、大津市と高齢化していくボランティアのみなさんの力で、保持はされている。だが、その声を代弁する役割を、われわれはまだ果たしていない。毎年行われる慰霊祭では、参加する人々は十数人になっている。
民間墓地の墓石は、すでにいくつかが無縁塚に移され、記憶を読むことが困難になっている。実際上、その存在が見捨てられようとしている。
それらは、個人のものであるが、国の過ちによって、失われた大切な命の記録であることには、変わりはないのだ。
●私の目標
体系的でなくても、過去の戦争の記録・記憶を見つけたら、共有できるものとして、残していきたい。それらは、私が個人で所有するものではない。そのつもりで、ブログでアップしているのだ。
①民間墓地で見つけたものは、遺族に配慮しながら、記録しつづける
②陸軍墓地は、その成り立ちなどを明らかにして、市民的財産にできるようにする。保存にも配慮する。
●当面の作業
①民間墓地で私が見つけたもののすべてをまだアップしていない。解読しながら、放置すれば、忘れてしまうものまである。だから、これは、はやく共有できるようにしたい。
②陸軍墓地については、
その1 BとEブロックについては、歿年月日と場所、階級などの一覧表をつくる。死亡原因については、病死でほぼまちがいないだろう。
その2 Fブロックは、11月中ごろまでに解読を終えたい。
その3 KとLブロック。移設前と後の照合リストをつくる。かなり手間なので、これは、11月24日以降になってもやむをえない。墓碑の解読は一番時間がかかるところ。ましてや、その意味などは、その先のこと。
その4 A、C、Dについては、階級と没年の一覧表をつくるまでは作業をする。
その5 Mについては、11月24日以降。
調査といえるほどのものでもないけれど。
●墓石が存在することの意味
将兵の墓石は、存在そのものによって、時を止め、過去を動かぬ現実としてわれわれの目の前に突きつける。だが、風雪は、石をも砕き、墓石が伝えたい記憶を、書かれた文字とともに、消し去ろうとしている。墓碑とつながる人々も、死に絶えようとしている。日露戦争ともなると、生きた記憶は、限界に達しようとしている。墓石は、自らが担ってきた役割を、これから引き継ぐ人間を求めている。
●墓石が語るもの
それは、不条理な死という事実である。将兵は、ほとんでが20代前半の若者である。死の状況を調べれば調べるほど、胸に迫る。もっとも人生が輝かしく思えるその時期に、命を絶っていった。それを繰り返すことは、許されないという思いである。
●失われる記録
陸軍墓地は、大津市と高齢化していくボランティアのみなさんの力で、保持はされている。だが、その声を代弁する役割を、われわれはまだ果たしていない。毎年行われる慰霊祭では、参加する人々は十数人になっている。
民間墓地の墓石は、すでにいくつかが無縁塚に移され、記憶を読むことが困難になっている。実際上、その存在が見捨てられようとしている。
それらは、個人のものであるが、国の過ちによって、失われた大切な命の記録であることには、変わりはないのだ。
●私の目標
体系的でなくても、過去の戦争の記録・記憶を見つけたら、共有できるものとして、残していきたい。それらは、私が個人で所有するものではない。そのつもりで、ブログでアップしているのだ。
①民間墓地で見つけたものは、遺族に配慮しながら、記録しつづける
②陸軍墓地は、その成り立ちなどを明らかにして、市民的財産にできるようにする。保存にも配慮する。
●当面の作業
①民間墓地で私が見つけたもののすべてをまだアップしていない。解読しながら、放置すれば、忘れてしまうものまである。だから、これは、はやく共有できるようにしたい。
②陸軍墓地については、
その1 BとEブロックについては、歿年月日と場所、階級などの一覧表をつくる。死亡原因については、病死でほぼまちがいないだろう。
その2 Fブロックは、11月中ごろまでに解読を終えたい。
その3 KとLブロック。移設前と後の照合リストをつくる。かなり手間なので、これは、11月24日以降になってもやむをえない。墓碑の解読は一番時間がかかるところ。ましてや、その意味などは、その先のこと。
その4 A、C、Dについては、階級と没年の一覧表をつくるまでは作業をする。
その5 Mについては、11月24日以降。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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