お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「軍都・大津市を考えるサイト」(旧大津陸軍墓地の真実を知ろう)という名前にしました2007/10/12

やりはじめたら、トコトンやろうと思って、
サイトのトップをつくりました。
http://www.ne.jp/asahi/ponpoko/tanuki/gunto/index

サイトの名前は、

「軍都・大津市を考えるサイト」(旧大津陸軍墓地の真実を知ろう

コンテンツは、これまでブログで書いてきたことを
整理していきます。

BBSもつければいいのですが、
ご意見は、このブログのコメントへ。

サイトとブログを自由に行き来できる構成がいいのでは?2007/10/12

ブログで書いたことを、
あらためて、サイトで作り直すよりも、
ブログの記事を
サイトのひとつのページと考えて、
ジャンプするようにすれば、
いいんじゃないかな。

たとえば、陸軍墓地のサイトで、
わざわざ「ロシア人兵士の墓地」という
ページを作らなくても、
このブログのその記事に飛ぶように
すれば、いいわけだ。

つまり、一体のものにしてしまえば、
いいんじゃないかな?

ブログから見れば、サイトは
インデックスの代わり。
サイトから見れば、ブログは
ページの代わり。

実際に、そういうリンクをつくったけれど
使い勝手はともかく、悪い考えじゃないと
思う。
下のサイトへ飛んで、ロシア人兵士の
墓のリンクをクリックすれば、ブログへ
戻ります。

*********************************
これが「軍都大津市を考える」サイトです
ブログで書き溜めてきた陸軍墓地の記事を
系統的に読めるようにしようと思っています。
http://www.ne.jp/asahi/ponpoko/tanuki/gunto/

休日の過ごし方2007/10/12

11日は休日。
日ごろできないことをやってしまう日。

朝目覚めると、雨模様。
たとえ降らなくても、一日曇天の様子。
墓碑を撮影にいくことはあきらめて、
滋賀県立図書館に資料あつめを
メインに過ごそうと思う。
そのためには、どういう資料が必要かを
考えておかなければならない。

とりあえず休みだからと
のんびり寝ていると、
学校へ行くはずのH君がなぜか
二階と三階の間を行ったりきたり、
足音がうるさい。ごみだしもあるので、
午後8時すぎに起きだす。

H君は、自転車と家のカギが見つからず、
学校へ出るに出られないらしい。
時計を見るとヤバイ時間。
急いで車に乗るように行って、送り届ける。

帰宅して、もう一袋ごみを集めて出した。
忘れないようにそのまま銀行にいって、入金。

ようやく朝食を食べる準備にかかる。

パンをかじりながら、BSニュースを見る。
民主党の小沢氏と前原氏が、イラクや
憲法、国連に対する見解の違いが
顕在化いう趣旨のニュースを聴く。
いまさらという気がしたので、そのままに。
むしろ国民の民主党への反応が
気になる。

秋吉台のニュースに反応してブログを書く。

その後、陸軍墓地の記事を書く。
これまで兵ばかりだったので
将校について触れなければ、
説明会には不足があるだろう。
少将というのは、すごいらしいから。

お昼前にH君が試験を終えて、帰宅。
食事をいっしょにしていたら、外から
シュプレヒコールが聞こえる。
イラクへの自衛隊派遣に反対する昼休みデモ。

帰宅すると、部屋に明るい日がさしている。
午後の日差しは、解読困難な墓碑にとって
大事なもの。県立図書館に行くのをあきらめて
陸軍墓地へ出かけることにした。

午後3時過ぎに帰宅して、郵便保険の用事にかかる。
家にくすぶっているH君を誘って喫茶店へ。
そこで『陸軍墓地がかたる日本の戦争』を拾い読み。
大切なポイントを拾い出す。

まだ閉館時間に間に合うので、
県立ではなく、市立図書館に
出かけることにした。
大津市と彦根市が発刊している
それぞれの旧い市史が目当て。
時間ぎりぎりまで粘る。

帰宅して資料を整理していると、
カミさんやK君が帰宅。
もう夕食時になっていた。

夕食後、カミさんとゲームを楽しむ。
カミさんは、やめたかと思うと、
あっという間に、睡眠状態に。
深夜、カミさんは起きだして、
食器と弁当箱を洗う。
私は、お茶とご飯の準備をする。

私は、みなが寝静まったころ、
こうして、ブログにかかる。
明日は仕事。忙しくなるので、
頭に浮かんだことをメモしておかないと
消えてしまいそうだ。

調査のための疑問点をメモする2007/10/12

陸軍墓地は、招魂社や靖国神社(護国神社)とちがい、
戦意高揚を目的として創られた施設ではない。
将校や兵の死亡したあと、どうするかという実際的な
問題から発している。
『陸軍墓地がかたる日本の戦争』が述べているように
兵の出生地と死亡地の距離、兵営と自宅との距離が
大きく広がったために、故郷に葬れない兵の墓を
どうするのか、という問題なのだ。
平時では兵舎と練兵場のあるところに、
病死した兵の墓地が必要になる。

こうして、真田山でも、大津でも、陸軍墓地
(陸軍埋葬場)が生まれる。

問題は、戦争の場合。
西南戦争も距離は広がるが、
侵略戦争である日清や日露、
その後の戦争は
絶望的なほど、故郷と死亡地の距離は開く。

西南戦争の個人墓碑が大津では少ない。
これは、九州の戦場近くや真田山に
葬られているからかも知れない。
確かめることはできるだろう。
かつてなく死亡者がふえたことと
亡骸が戻らないという事情から、
西南戦争の「紀念碑」が建立された
のだと思われる。

では、日清戦争はどうか?

大津陸軍墓地には、兵だけで
207柱の墓碑がある。
全体で559柱だから、
圧倒的多数といえる。
現地で葬り、遺骨だけがもどった
のかもしれない。

では、なぜ、日露戦争の個人墓がないのか?

階級別の四つの慰霊碑が建っている。
同じものが、真田山にもある。
あまりにも、膨大な死傷者が出たので、
共通の方針として、合葬碑ですますしかないと
判断したのかも知れない。
根拠は?

その後の戦争も同様。

陸軍墓地が戦意高揚を
主な目的にしなかった証拠に、
第九連隊が移転してからは、
ひとつの個人碑も建っていない。

じゃあ、なぜ、県単位に
連隊が復活したときに、
陸軍墓地に個人碑が建てられ
なかったのか?
昭和時代なので、輸送機関が
発達したからか?

いずれにしても、それぞれの戦争の性格と
戦場、および真田山墓地を
考慮に入れないと
大津陸軍墓地から
戦争の真実をさぐりあてることは
できないと思った。

「西南之役」の文言が見つかった個人墓碑2007/10/12

「西南之役」に参加した兵の墓碑
10月11日、休日を利用して、
旧大津陸軍墓地へ出かける。
もう何度目になるだろうか?

Fブロックで見つけた「西南之役」という
語句が入った墓碑。

語句に夢中で位置を忘れていた。

まあ、現場で見れば、わかるだろうと
思っていたが、ショックなことに
見つけることができなかった。

家に帰り、写真で確認。

これです。

壊れました、これ。2007/10/12

ついに壊れました・・・・でも、まだ使っています
ついに壊れました。
空き地に現在の家を建てるまえから、
家にあったもの。
結婚して、子どもが生まれたのが
きっかけだから、もう10数年は
使っていたものです。

なにかわかりますか?

壊れた先についていたもの2007/10/12

ヘビではありません・・・これが取れたのです
これが取れたんです。
さっきのものに付いていたものです。

・・・そう、浄水器。

琵琶湖の水って、夏になるとカビ臭くて
水道水になっても、飲めませんでした。
カビくさくしたくなければ、フッ素を強化する。
そうなれば薬っぽい臭いと味。
いまは別の処理をしているみたいですが、
この機械のおかげで、水道水の
状態がわからなくなっています。

そういう水でも、慣れているし、
仕方ないと思っていたのですが、
赤ちゃんが生まれるとなんでも、
心配になります。

それで、つい・・・10数年前に
買うはめに。
機種ってこれしかなかったんです。

13日に新しいものが家に来るそうです。
ありがたくない出費。

そういえば、カミさんは新しいのがほしいと
二ヶ月ぐらい前から言っていました。
もしかして・・・・。
まあ、そんなことはないと思いますが。

実は、壊れたあとも実際に使っているのです。
中身が壊れたわけじゃないですから。
公園にあるでしょ、○○○○ん小僧。
あんな感じで飛びだしてくる水を
受け止めて使っています。

朝のお弁当のお茶を沸かすのは
私の役割。
ヤカンに入れるだけで、
手元がびしょびしょになりますけれど。
そうそう、おコメも同じ。

アルカリ系の水質にすると、
サイモンとガーファンクルの
『明日に架ける橋 (Bridge Over Troubled Water)』
のメロディが浄水器から流れてきます。
なんか、troubuled という言葉だけが
頭からはっきり聞こえるような・・。

またわが家の一日がはじまりました2007/10/12

ムー♂ネコ
私は、今日はすこし寝坊気味。
昨晩が遅かったせいですね。
早朝、ムー♂ネコが、エサがほしくて、
起こしにきたのですが私は眠いので無視。
あきらめて、出て行きました。

カミさんは、午前五時過ぎにおきて、
全員の弁当を作ります。
家族があたふたと準備をして
出て行きます。
私が一番最後に出発。
仕事に行く準備を始めると、
ムー♂ネコが、トントンと音をたてて
3階から降りてきます。

エサはもうカミさんから、
もらったらしいですね。
窓際に寝そべって、こっちを見ています。
・・・私になにか言いたい?

カメラもって近づくと
カーテンとじゃれあいながら隠れます。
そして、身づくろい。

こうして一日がはじまりました。

永源寺第二ダム訴訟で国の敗訴が確定2007/10/12

2005年12月の大阪地裁につづき、
国が敗訴して、これで確定したわけです。

ムダとわかっていても、止まらなかったのが
大型公共事業。
永源寺第二ダムの場合は、
これで止まることが決定です。

滋賀県では、住民の力で、凍結をかかげた
嘉田知事が誕生し、いま賠償をめぐって
栗東市とせめぎあいをしてはいますが、
新幹線新駅も中止されることも決まりです。

長野県の田中元知事の脱ダム宣言も
大きな流れを作りましたね。
滋賀県では、新幹線新駅とダムで
利権に群がるゼネコンや官僚、政治家に対して
一矢も二矢も報いたことになります。
彼らは、財政赤字なんのその。
つけは国民へまわして平気。
それを許さない力が育ってきたということです。

ところで、大企業が減税を求める一方、
消費税増税を言い出しています。
今度は、これを止めるときです。
どこでも、御用学者はいて、さまざまな
理屈を作ります。
永源寺第二ダムの場合は、あまりにも
お粗末。
調査もせず、ボーリングもしないなんて
素人以下でした。
経済理論家なるものがいいだす
いろんな理屈とも、
うのみにせずに、検証する必要があるのです。
そして、お上の理屈に弱いマスコミとも。
(例外も、もちろんあります。
 集団自決問題などを見ると、沖縄の
 地域紙には心からの敬意をいだきます)

ともかく、原告代表をつとめた吉原稔先生
ごくろうさまです。
県会議員をやめられても、なお元気でご活躍。
新聞に年齢がのっていましたが・・・そうは
見えませんので、今後も期待しています。

モンキチョウ2007/10/12

モンキチョウ
お昼の30分間。
膳所公園へ。
晴れても暗い雲が広がってきています。
公園には、保育園の園児たちがお昼の
お弁当を食べながら、はしゃいでいます。
・・・・トリは、近づいてこないでしょうねぇ。

案の定、トリさんは公園には、姿がありません。

時間がないので、あきらめて
帰ろうと思いましたが、
・・・虫がいると思い直して、
写してかえることにしました。

これはモンキチョウ。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)