お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
石すら風化していくときに ― 2007/10/17
悪い過去を忘れてほしいと思う人がいて、記録を改ざんすることさえ辞さないとすれば、われわれはどうすればいいのでしょうか?
ふたたび過ちを繰り返したいと願う人がいて、悪行さえ善の行いといい始めたとき、われわれはどうすればいいでしょうか?
いまや、記憶していることさえ、犯罪のように扱われています。
(「冬のソナタ」ではありませんが)、メモリー=記憶がキーワードになってきます。
一人の記憶ではなく、国民すべてが共有すべき記憶が問われます。
真実を明らかにして、その真実をすべての世代に引き継いでいくこと、考えや主張が違っても、それが拠ってたつべき記憶の土台は同じであるべきです。
記憶を失ったとき、それはアイデンティティの喪失。
人は「覚えていてほしい」と願い、石に記憶を刻みました。
記念碑、墓石、義民の過去、生きた証の名前、なんでもそうです。
しかし、石すら永遠の存在ではありません。
記憶を媒介する力を失ったとき、それはただの石くれとなります。
上の写真は、過去の記憶の残骸です。
真田山陸軍墓地で風化し、刻まれた名前を次の世代につたえることなく砕けています。
またそのいくつかは、その瀬戸際に立っています。
私は、歴史が歴史でなくなる瞬間を見ている気がしました。
石すら、風化してしまうときに、どうすれば、われわれは真実を記憶しつづけることができるのでしょう。どうすれば、ひとつの国民の経験の土台として、保持し続けることができるのでしょう。
過去を現在によみがえらせ、現在を生きる力にするには、なにをすべきなのでしょう。
真実を明らかにして、それを共有する努力をつづけるしかないと、今の私には思えます。
いま、沖縄へのバッシングを許さないためには、沖縄以外の土地が、沖縄のために、なにかをすべきときなのです。
それは、真実を知るということです。
それから先は、それぞれが決めることができるはず。
そして、同じ理由で、自らの歴史を見出し、自らのアイデンティティをつかみだすことだと思います。
私が「お墓ブログ」とカミさんに言われながら、墓石に向かい合うのは、そこに、自分が拠ってたつべきなにかがあると感じたからなのです。
・・・・・それにしても、お墓ばかりかな。
ふたたび過ちを繰り返したいと願う人がいて、悪行さえ善の行いといい始めたとき、われわれはどうすればいいでしょうか?
いまや、記憶していることさえ、犯罪のように扱われています。
(「冬のソナタ」ではありませんが)、メモリー=記憶がキーワードになってきます。
一人の記憶ではなく、国民すべてが共有すべき記憶が問われます。
真実を明らかにして、その真実をすべての世代に引き継いでいくこと、考えや主張が違っても、それが拠ってたつべき記憶の土台は同じであるべきです。
記憶を失ったとき、それはアイデンティティの喪失。
人は「覚えていてほしい」と願い、石に記憶を刻みました。
記念碑、墓石、義民の過去、生きた証の名前、なんでもそうです。
しかし、石すら永遠の存在ではありません。
記憶を媒介する力を失ったとき、それはただの石くれとなります。
上の写真は、過去の記憶の残骸です。
真田山陸軍墓地で風化し、刻まれた名前を次の世代につたえることなく砕けています。
またそのいくつかは、その瀬戸際に立っています。
私は、歴史が歴史でなくなる瞬間を見ている気がしました。
石すら、風化してしまうときに、どうすれば、われわれは真実を記憶しつづけることができるのでしょう。どうすれば、ひとつの国民の経験の土台として、保持し続けることができるのでしょう。
過去を現在によみがえらせ、現在を生きる力にするには、なにをすべきなのでしょう。
真実を明らかにして、それを共有する努力をつづけるしかないと、今の私には思えます。
いま、沖縄へのバッシングを許さないためには、沖縄以外の土地が、沖縄のために、なにかをすべきときなのです。
それは、真実を知るということです。
それから先は、それぞれが決めることができるはず。
そして、同じ理由で、自らの歴史を見出し、自らのアイデンティティをつかみだすことだと思います。
私が「お墓ブログ」とカミさんに言われながら、墓石に向かい合うのは、そこに、自分が拠ってたつべきなにかがあると感じたからなのです。
・・・・・それにしても、お墓ばかりかな。
捨てられる戦争の記録 ― 2007/10/17
日本が悲惨な戦争を数十年にわたって行ってきたという記録が消えつつあります。それは、意図的に、国民の記憶から、消そうという流れもあります。
私は、言葉だではなく、昔の教科書そのものなど、
モノが伝える迫力と衝撃は大きいと思います。
たとえば、墓碑です。
陸軍墓地は、その一部にすぎません。
大津市には、旧い墓地がたくさんあります。そして、そのなかに、☆印をつけたとんがった墓碑、周りよりもひときわ高い墓碑が、戦死者の墓碑です。
●日清戦争の墓碑をさがして
西南戦争の墓碑は、どの墓地でも探すことはできませんでした。
日露戦争の墓碑は、必ずといっていいほど、どの墓地にもひとつ、ふたつと見出すことができます。
では、日清戦争の墓碑はどうでしょうか。
●偶然、ただひとつ発見
それがこれです。
真ん中のとがった墓石。
無縁仏を集めたところに、捨てられるようにしておいてありました。
重ねてあるので、すべての文字が読めません。
読めたのは、「明治二十八年四月」と「故陸軍歩兵」そして「井上」の文字。それよし下は、他の墓石が邪魔で見ることができません。
●明治44年版「大津市志」
明治44年版には、日清戦争で亡くなった大津市出身者が掲載されています。それと見比べて、相当すると思われる方は、
陸軍歩兵上等兵 井上友次郎
明治28年4月29日没。
しかし、同じ名前が、陸軍墓地のリストの中にも見出せます。
二つ墓石があるなんてありえるのでしょうか?
それとも別人?
私は、言葉だではなく、昔の教科書そのものなど、
モノが伝える迫力と衝撃は大きいと思います。
たとえば、墓碑です。
陸軍墓地は、その一部にすぎません。
大津市には、旧い墓地がたくさんあります。そして、そのなかに、☆印をつけたとんがった墓碑、周りよりもひときわ高い墓碑が、戦死者の墓碑です。
●日清戦争の墓碑をさがして
西南戦争の墓碑は、どの墓地でも探すことはできませんでした。
日露戦争の墓碑は、必ずといっていいほど、どの墓地にもひとつ、ふたつと見出すことができます。
では、日清戦争の墓碑はどうでしょうか。
●偶然、ただひとつ発見
それがこれです。
真ん中のとがった墓石。
無縁仏を集めたところに、捨てられるようにしておいてありました。
重ねてあるので、すべての文字が読めません。
読めたのは、「明治二十八年四月」と「故陸軍歩兵」そして「井上」の文字。それよし下は、他の墓石が邪魔で見ることができません。
●明治44年版「大津市志」
明治44年版には、日清戦争で亡くなった大津市出身者が掲載されています。それと見比べて、相当すると思われる方は、
陸軍歩兵上等兵 井上友次郎
明治28年4月29日没。
しかし、同じ名前が、陸軍墓地のリストの中にも見出せます。
二つ墓石があるなんてありえるのでしょうか?
それとも別人?
日露戦争で病没した32歳後備歩兵一等卒の墓石 ― 2007/10/17
●明治44年「大津市志」
この下巻に、大津市出身者の戦没者のリストが、西南戦争、日清戦争、そして日露戦争とあります。
墓石に刻む程度の経歴もつけられています。
●高山寺墓地で発見
それを眺めていて、同じ名前の墓石が
高山寺墓地の入り口付近に、あることに気づきました。
この墓地は、大津市でもっとも旧い墓地のひとつです。
それには、つぎのように書いてあります。
大津市菱屋町二十五番地
陸軍歩兵一等卒勲八等 杉本熊吉
明治五年四月十日生
明治二十五年徴兵出身後備役として後備歩兵第九連隊に属し、三十七八戦役従軍各地戦闘。明治三十七年十月十三日清国嶺子定立病院に於て赤痢病により死亡。同日叙勲八等白色桐葉章及従軍記章を授け賜ひ同四十年五月靖国神社に合祀される。
写真で確かめると、まさにその人のお墓でした。
明治五年生まれということは、32歳。
兵士としては高齢の後備兵も動員したのです。
●陸軍墓地には兵の個人墓石はありません
陸軍墓地には、四つの階級別の合葬碑はあります。
また、将校の墓石はあります。
しかし、日露戦争で戦没した兵の墓碑はありません。
それは、こういう民間墓地でしか、見ることができないのです。
この下巻に、大津市出身者の戦没者のリストが、西南戦争、日清戦争、そして日露戦争とあります。
墓石に刻む程度の経歴もつけられています。
●高山寺墓地で発見
それを眺めていて、同じ名前の墓石が
高山寺墓地の入り口付近に、あることに気づきました。
この墓地は、大津市でもっとも旧い墓地のひとつです。
それには、つぎのように書いてあります。
大津市菱屋町二十五番地
陸軍歩兵一等卒勲八等 杉本熊吉
明治五年四月十日生
明治二十五年徴兵出身後備役として後備歩兵第九連隊に属し、三十七八戦役従軍各地戦闘。明治三十七年十月十三日清国嶺子定立病院に於て赤痢病により死亡。同日叙勲八等白色桐葉章及従軍記章を授け賜ひ同四十年五月靖国神社に合祀される。
写真で確かめると、まさにその人のお墓でした。
明治五年生まれということは、32歳。
兵士としては高齢の後備兵も動員したのです。
●陸軍墓地には兵の個人墓石はありません
陸軍墓地には、四つの階級別の合葬碑はあります。
また、将校の墓石はあります。
しかし、日露戦争で戦没した兵の墓碑はありません。
それは、こういう民間墓地でしか、見ることができないのです。
シベリア出兵の記録をとどめる個人墓碑 ― 2007/10/17
タンチョウ ― 2007/10/17
水牛 ― 2007/10/17
バッファローって目が離れているのか? ― 2007/10/17
お尻のむこうは顔だった ― 2007/10/17
車にむかってきたシカ?・・・巻貝を角にした・・なんだろう? ― 2007/10/17
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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