
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
第二列K18からK34も、下段西側18から34に照応 @旧大津陸軍墓地 ― 2007/10/27
旧大津陸軍墓地の下段の237柱の位置再現プロジェクト。
↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519
Kブロックの第二列をチェックしたが、
これも最前列と同様に、
下段西側の連番と一致した。
つまり、1から34まではそのまま使えるということだ。
文字の誤記などもあるようだが、それはまた
あとでチェック。
●チェックを加速するために
基本的に、西側の連番がそのままだと仮定して、
チェックをする。
ちがった箇所から、ブログにメモを残すことにする。
どこまで一致するのだろうか?
↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519
Kブロックの第二列をチェックしたが、
これも最前列と同様に、
下段西側の連番と一致した。
つまり、1から34まではそのまま使えるということだ。
文字の誤記などもあるようだが、それはまた
あとでチェック。
●チェックを加速するために
基本的に、西側の連番がそのままだと仮定して、
チェックをする。
ちがった箇所から、ブログにメモを残すことにする。
どこまで一致するのだろうか?
Kブロックと下段西側の連番の照応は第3列K45まで@旧大津陸軍墓地 ― 2007/10/27
旧大津陸軍墓地・下段237柱の原状再現プロジェクト。
↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519
K1からK45までは、下段西側の墓碑につけられた
連番と一致する。
K46から、ちがってくる。
↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519
K1からK45までは、下段西側の墓碑につけられた
連番と一致する。
K46から、ちがってくる。
下段の番号にしたがわず配列を変えた理由=墓の形状(台石の数) ― 2007/10/27
●配列の順番を変えた理由はなにか
バイパス工事によって、上段・中段・下段と
あった旧陸軍墓地の形状を変えて、
下段を道路にしてしまい、
中段の西の谷を埋め立て、そこに敷地を
つくり、下段の西側・東側の墓石237柱を
ふたつのブロックに分けて、
改葬(移設)しました。
●基本的に西側はKブロック
ざっと見て、西側はKブロック。
問題は、配列。
K1からK45まで、下段西側の番号にしたがって
並べられていることが、わかりました。
しかし、K46は、下段西側46ではないのです。
K46=下段西側59なのです。
これはなぜ?
●下段の図の記号がヒントになるのでは?
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/07/1840480
↑
下段の図を見ていると、墓石をあらわす
記号が二種類あるのがわかります。
⊥と□です。
⊥は、台石がひとつ。
□は、台石が二つ。
西側1から45までは⊥。
西側46から58までは□。
西側59は⊥。
西側60から91までは□。
西側93は⊥。
この台石の数で統一するために、
K46は、西側46から58まで飛ばして、
西側59にしたのだと思います。
K47が西側93なら、この仮説が正しいと
なりますね。
それにしても、こだわるところがちがうんじゃないの。
バイパス工事によって、上段・中段・下段と
あった旧陸軍墓地の形状を変えて、
下段を道路にしてしまい、
中段の西の谷を埋め立て、そこに敷地を
つくり、下段の西側・東側の墓石237柱を
ふたつのブロックに分けて、
改葬(移設)しました。
●基本的に西側はKブロック
ざっと見て、西側はKブロック。
問題は、配列。
K1からK45まで、下段西側の番号にしたがって
並べられていることが、わかりました。
しかし、K46は、下段西側46ではないのです。
K46=下段西側59なのです。
これはなぜ?
●下段の図の記号がヒントになるのでは?
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/07/1840480
↑
下段の図を見ていると、墓石をあらわす
記号が二種類あるのがわかります。
⊥と□です。
⊥は、台石がひとつ。
□は、台石が二つ。
西側1から45までは⊥。
西側46から58までは□。
西側59は⊥。
西側60から91までは□。
西側93は⊥。
この台石の数で統一するために、
K46は、西側46から58まで飛ばして、
西側59にしたのだと思います。
K47が西側93なら、この仮説が正しいと
なりますね。
それにしても、こだわるところがちがうんじゃないの。
あらためてKブロックを観察する@旧大津陸軍墓地 ― 2007/10/27
Kブロックの連番は、1から45までは、
下段西側の1から45に照応しています。
ところが、新設46番は、西側49番。
いきなり、3つ飛ぶのです。
これは、なぜ?
そこで、気がついたのが、墓石の形状。
具体的には、台座の石が1つなのか、
それとも、2つなのかということです。
●あらためてKブロックを観察
それで、Kブロック全体を観察しなおす
ことにしたのです。
上の写真の左が正面です。
見てください。
前から3列目までが台石が1つ、
4列目以降が、台石が2つに
揃えられているのがわかります。
つまり、旧下段の墓石に便宜的であったにしても、
配列の順番につけたオーダーよりも、形状を
重視して並べられたことがわかります。
要するに、見場がいいようにということでしょうね。
下段西側の1から45に照応しています。
ところが、新設46番は、西側49番。
いきなり、3つ飛ぶのです。
これは、なぜ?
そこで、気がついたのが、墓石の形状。
具体的には、台座の石が1つなのか、
それとも、2つなのかということです。
●あらためてKブロックを観察
それで、Kブロック全体を観察しなおす
ことにしたのです。
上の写真の左が正面です。
見てください。
前から3列目までが台石が1つ、
4列目以降が、台石が2つに
揃えられているのがわかります。
つまり、旧下段の墓石に便宜的であったにしても、
配列の順番につけたオーダーよりも、形状を
重視して並べられたことがわかります。
要するに、見場がいいようにということでしょうね。
K1からK51までは台石1つの墓石を選んで連番順に改葬した@旧大津陸軍墓地 ― 2007/10/27
下段西側の墓石は全部で135基ありました。
そのうち、台石がひとつの墓石は、
1から45、59、93、127、132、133、
そして135の51基です。
1976年に新設されたKブロックでは、
見事にこの順番で並んでいます。
ちなみに残りの84基は、台石が2つ。
簡単に照応関係だけをメモします。
K1~K45は、そのまま西側1から45に照応。
K46=西側59
K47=西側93 墓石の読みが間違っています。
「生兵 田村勝治郎」(大津市作成名簿)ではなく
「生兵三田村勝治郎」が正しい。
K48=西側127
K49=西側132
K50=西側133
K51=西側135
そのうち、台石がひとつの墓石は、
1から45、59、93、127、132、133、
そして135の51基です。
1976年に新設されたKブロックでは、
見事にこの順番で並んでいます。
ちなみに残りの84基は、台石が2つ。
簡単に照応関係だけをメモします。
K1~K45は、そのまま西側1から45に照応。
K46=西側59
K47=西側93 墓石の読みが間違っています。
「生兵 田村勝治郎」(大津市作成名簿)ではなく
「生兵三田村勝治郎」が正しい。
K48=西側127
K49=西側132
K50=西側133
K51=西側135
このアングルで見た人はいるのだろうか? ― 2007/10/27
さっきの花の撮影の苦労がわかる・・・と思いますが ― 2007/10/27
雨上がりの街をあるいて花を撮る ― 2007/10/27
この花の名前は知りたいと思いました ― 2007/10/27
バルタン星人の手のようなつぼみです ― 2007/10/27

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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