お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「なぜそんなに熱心に?」と問われて ― 2007/10/20
きれいな花やネコの写真から、陸軍墓地の問題へ入るには、私の気持ちのなかでも、ワンクッションが必要です。
ですから、今日あった話のことを書いて、作業前の入り口にしたいと思います。
●『軍都・大津』の著者との対話から
10月18日の夜ことです。
「11月24日に「大津陸軍墓地の見学会をするの来ませんか」と『軍都・大津』の著者の中島峰夫氏に電話しました。OKの返事をもらってうれしかったのですが、「なにをきっかけにそんなに熱心に?」と聞き返されました。
頭で返事をするのは、簡単なことです。
「戦争の遺産の意義を明らかにして、保存するのは市民の義務」とか、言うことはできます。
その返事は、まちがってはいないでしょうけれど、私の行動は、そういう理屈からくるものじゃないのです。
こういう質問がでたのをきっかけに、自分の出発点を確かめておきたいと思いました。
それが、墓碑の細目に入るまえに必要な私の心のクッションになるでしょうから。
● 私の背中を押しているのは、感情。
私は、上の質問に対して、
「陸軍墓地を見たから」と答えました。
陸軍墓地の墓碑や一般墓地に眠る戦死者の墓碑が、直接、私にモノを言うわけではありません。
しかし、墓碑には、その名前をきざんた若者がいて、国が起こした戦争で亡くなりました。そこには、伝えたい思いがあったはずです。また、墓碑には、それをつくった人たちの思いもこめられているはず。
しかし、どの墓碑も、そこに建っている以外、思いを伝える手段が残っていません。
数百とまとまった墓石を前にして、私は圧倒され、胸が痛くなったのです。
墓石はずっと以前からそこにありました。私は、それを知らず、関心ももたないまま過ごしてきました。墓石はそれをとがめる力をもちません。風雪と時の流れのなかで、風化していくのをただ待つだけです。
●せめて記録が、また研究があれば
せめて記録がしっかり残っていて、ふさわしい研究があれば、私は行動を起こすのをやめたでしょう。
残念ながら、そうではなかったのです。
だから、ほぼ一ヶ月かかりましたが、私はたとえ一人でも調査し、保存のために、行動しようと決めたのです。
●なぜ個人が
靖国神社には熱心な国ですが、陸軍墓地をはじめ、戦死者の墓碑には無関心です。つぎの戦死者をつくりだすのには熱心ですが、現実の戦死者の記録を尊重し、保全することには無関心です。
それは、最近の「集団自決」問題や従軍慰安婦問題でも、その姿勢はよく出ています。軍の行った恥ずべき行為はなかったことにしようという姿勢です。それは、被害者をうそつき呼ばわりすることで、二重に苦しめることになっています。
こういう状況が、個人、もしくはNPOが努力しなければ、はじまらない事態を生んでいるのです。
●事実を明らかにすること
私は、政治的立場から、アプローチするつもりはありません。
あくまで事実を明らかにすること、そして、
それを通じて真実に迫ることです。
●それをふまえた生き方を
私の知らない事実がつぎつぎと明らかになり、目の前に迫ってきます。
一番の驚きは、西南戦争、日清戦争、日露戦争から太平洋戦争までの死者が身近に存在していることです。もちろん、死者としてではなく、墓碑として、また文書の記録として、身近だった人たちの記憶として、残っていることです。
そういうことを踏まえないで、生きていくことと、そうでない場合とでは、ずいぶん違ってくるのだと私は思います。
知ってどうするかは、それぞれの問題です。
しかし、知ることは今を生きる私たちの義務だ考えます。
なぜなら、その人たちの死の上に、私たちの生が築かれているからです。 私たちの生とその人たちの死は無関係ではありません。
●市民の共通の知的財産として保全の道を
亡くなっていった若者の記録は、失われようとしています。
そこに行けば目に触れることができる墓碑と、しまわれたままになっている文書とでは違います。文書は調べようとする意思と手間がなければ、語ることはできません。墓碑は手で触れることもでき、見ることもできるものです。
その墓碑が失われようとしています。
陸軍墓地ですら、移転を迫られ、現状をとどめていません。
補修について公が責任をもつわけでもありません。
ましてや一般墓地は、入れ替わりがあります。無縁となった墓石は無縁塚に追いやられ、まともに読むことができません。さらに、廃棄されてしまえば永遠に失われます。
モノとしても、また文書としても、私は残しておきたいし、それが市民の共有の知的財産となるように、道筋をつけておきたいと思っているのです。
これで答えになっているでしょうか?
ですから、今日あった話のことを書いて、作業前の入り口にしたいと思います。
●『軍都・大津』の著者との対話から
10月18日の夜ことです。
「11月24日に「大津陸軍墓地の見学会をするの来ませんか」と『軍都・大津』の著者の中島峰夫氏に電話しました。OKの返事をもらってうれしかったのですが、「なにをきっかけにそんなに熱心に?」と聞き返されました。
頭で返事をするのは、簡単なことです。
「戦争の遺産の意義を明らかにして、保存するのは市民の義務」とか、言うことはできます。
その返事は、まちがってはいないでしょうけれど、私の行動は、そういう理屈からくるものじゃないのです。
こういう質問がでたのをきっかけに、自分の出発点を確かめておきたいと思いました。
それが、墓碑の細目に入るまえに必要な私の心のクッションになるでしょうから。
● 私の背中を押しているのは、感情。
私は、上の質問に対して、
「陸軍墓地を見たから」と答えました。
陸軍墓地の墓碑や一般墓地に眠る戦死者の墓碑が、直接、私にモノを言うわけではありません。
しかし、墓碑には、その名前をきざんた若者がいて、国が起こした戦争で亡くなりました。そこには、伝えたい思いがあったはずです。また、墓碑には、それをつくった人たちの思いもこめられているはず。
しかし、どの墓碑も、そこに建っている以外、思いを伝える手段が残っていません。
数百とまとまった墓石を前にして、私は圧倒され、胸が痛くなったのです。
墓石はずっと以前からそこにありました。私は、それを知らず、関心ももたないまま過ごしてきました。墓石はそれをとがめる力をもちません。風雪と時の流れのなかで、風化していくのをただ待つだけです。
●せめて記録が、また研究があれば
せめて記録がしっかり残っていて、ふさわしい研究があれば、私は行動を起こすのをやめたでしょう。
残念ながら、そうではなかったのです。
だから、ほぼ一ヶ月かかりましたが、私はたとえ一人でも調査し、保存のために、行動しようと決めたのです。
●なぜ個人が
靖国神社には熱心な国ですが、陸軍墓地をはじめ、戦死者の墓碑には無関心です。つぎの戦死者をつくりだすのには熱心ですが、現実の戦死者の記録を尊重し、保全することには無関心です。
それは、最近の「集団自決」問題や従軍慰安婦問題でも、その姿勢はよく出ています。軍の行った恥ずべき行為はなかったことにしようという姿勢です。それは、被害者をうそつき呼ばわりすることで、二重に苦しめることになっています。
こういう状況が、個人、もしくはNPOが努力しなければ、はじまらない事態を生んでいるのです。
●事実を明らかにすること
私は、政治的立場から、アプローチするつもりはありません。
あくまで事実を明らかにすること、そして、
それを通じて真実に迫ることです。
●それをふまえた生き方を
私の知らない事実がつぎつぎと明らかになり、目の前に迫ってきます。
一番の驚きは、西南戦争、日清戦争、日露戦争から太平洋戦争までの死者が身近に存在していることです。もちろん、死者としてではなく、墓碑として、また文書の記録として、身近だった人たちの記憶として、残っていることです。
そういうことを踏まえないで、生きていくことと、そうでない場合とでは、ずいぶん違ってくるのだと私は思います。
知ってどうするかは、それぞれの問題です。
しかし、知ることは今を生きる私たちの義務だ考えます。
なぜなら、その人たちの死の上に、私たちの生が築かれているからです。 私たちの生とその人たちの死は無関係ではありません。
●市民の共通の知的財産として保全の道を
亡くなっていった若者の記録は、失われようとしています。
そこに行けば目に触れることができる墓碑と、しまわれたままになっている文書とでは違います。文書は調べようとする意思と手間がなければ、語ることはできません。墓碑は手で触れることもでき、見ることもできるものです。
その墓碑が失われようとしています。
陸軍墓地ですら、移転を迫られ、現状をとどめていません。
補修について公が責任をもつわけでもありません。
ましてや一般墓地は、入れ替わりがあります。無縁となった墓石は無縁塚に追いやられ、まともに読むことができません。さらに、廃棄されてしまえば永遠に失われます。
モノとしても、また文書としても、私は残しておきたいし、それが市民の共有の知的財産となるように、道筋をつけておきたいと思っているのです。
これで答えになっているでしょうか?
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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