
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争での第九連隊について明治44年大津市志が語ること ― 2007/10/21
●明治44年版「大津市志」
それ以降の大津市史の記述も、基本的にこの域を超えていません。
第九連隊の活動を書いた文章は、わずか7行です。
『二十八(*1895)年三月二十八日出征の命あり屯営出発。同四月十三日宇品出帆。同月十六日奉天府大連湾に入り、同月二十二日清国柳樹屯に上陸す。然るに未だ戦に入らざるに休戦となり五月十日平和克服(*下関条約締結のこと)するに至り、それより遼東の守備に任ずること九ヶ月。同年十二月二十五日屯営に還る。然るに日を?すること僅か九日台湾匪賊討伐の為再び出征の命あり。翌年一月八日屯営を発し、同月八日宇品出帆。同十三日基隆に着す。爾来瘴風瘴雨の裡各地匪賊の掃討に従事し右碇街坪林尾石漕殺牛寮等に匪賊の集団を破る。七月一日守備隊と交代し、同月六日屯営に還る』
これだけです。
①狭義の日清戦争には参加していないこと。
中国本土到着は、1895年4月22日。
②下関条約締結後は、遼東半島の守備。
大津帰還は、1895年12月25日。
③台湾征服戦争
ところが、わずか9日後には出征命令。
1896年1月13日に台湾上陸。
1896年7月1日に守備隊と交代。
それ以降の大津市史の記述も、基本的にこの域を超えていません。
第九連隊の活動を書いた文章は、わずか7行です。
『二十八(*1895)年三月二十八日出征の命あり屯営出発。同四月十三日宇品出帆。同月十六日奉天府大連湾に入り、同月二十二日清国柳樹屯に上陸す。然るに未だ戦に入らざるに休戦となり五月十日平和克服(*下関条約締結のこと)するに至り、それより遼東の守備に任ずること九ヶ月。同年十二月二十五日屯営に還る。然るに日を?すること僅か九日台湾匪賊討伐の為再び出征の命あり。翌年一月八日屯営を発し、同月八日宇品出帆。同十三日基隆に着す。爾来瘴風瘴雨の裡各地匪賊の掃討に従事し右碇街坪林尾石漕殺牛寮等に匪賊の集団を破る。七月一日守備隊と交代し、同月六日屯営に還る』
これだけです。
①狭義の日清戦争には参加していないこと。
中国本土到着は、1895年4月22日。
②下関条約締結後は、遼東半島の守備。
大津帰還は、1895年12月25日。
③台湾征服戦争
ところが、わずか9日後には出征命令。
1896年1月13日に台湾上陸。
1896年7月1日に守備隊と交代。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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