お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧大津陸軍墓地で、明治5年没のお墓をさがせ! ― 2007/10/02
9月末に、大津市役所で見たバイパス工事にともなう移転前の陸軍墓地の地図では、明治5(1872)年という墓碑がありました。
この年代に疑問をもって、その場で、そのことを、健康福祉政策課の方にいいましたから、まちがいないと思います。
●明治8年に大津営所ができたのに、
なぜ明治5年のお墓があるのか?
大津市に、大阪鎮台大津営所ができ、第九連隊が移転してきのは、明治8(1875)年3月8日のことです。
これでは、日付があいません。
●用地接収は明治初年から
しかし、『新修大津市史』第五巻を調べてみると、大津市に第九連隊を駐屯させる決定は、明治6(1873)年1月9日ですが、それより先に、大津市に軍事拠点をおく構想があったことがわかります。
慶応4(1868)年4月11日に、軍から、地主である園城寺にたいして、兵屯所造営のために、1万坪を借り上げる意向が示されています。
寺側は4月17日に請書を提出。その3日後の20日に、大村益次郎が10名ばかりを連れて、実地検分しています。
いったんこの計画は頓挫し、管轄がかわりますが、明治6(1873)年4月に元の計画に戻り、12月にはさらに2万坪余りを加えて、陸軍省への引渡しが認められたのです。
ですから、明治になったその年から、この地を墓地として活用することは可能だったと思われます。
いずれにしても、旧大津陸軍墓地で一番古いお墓はどれかは、知りたいと思います。
●旧真田山陸軍墓地は明治3年が最古
ちなみに、旧真田山陸軍墓地で一番古いお墓は
「下田織之助」という墓碑名のお墓。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
亡くなられた日付から、明治3年のものと思われます。
旧大津陸軍墓地ではどうでしょうか?
(上の写真は、「大津第九連隊の碑文」。明治七年の創設とある)
この年代に疑問をもって、その場で、そのことを、健康福祉政策課の方にいいましたから、まちがいないと思います。
●明治8年に大津営所ができたのに、
なぜ明治5年のお墓があるのか?
大津市に、大阪鎮台大津営所ができ、第九連隊が移転してきのは、明治8(1875)年3月8日のことです。
これでは、日付があいません。
●用地接収は明治初年から
しかし、『新修大津市史』第五巻を調べてみると、大津市に第九連隊を駐屯させる決定は、明治6(1873)年1月9日ですが、それより先に、大津市に軍事拠点をおく構想があったことがわかります。
慶応4(1868)年4月11日に、軍から、地主である園城寺にたいして、兵屯所造営のために、1万坪を借り上げる意向が示されています。
寺側は4月17日に請書を提出。その3日後の20日に、大村益次郎が10名ばかりを連れて、実地検分しています。
いったんこの計画は頓挫し、管轄がかわりますが、明治6(1873)年4月に元の計画に戻り、12月にはさらに2万坪余りを加えて、陸軍省への引渡しが認められたのです。
ですから、明治になったその年から、この地を墓地として活用することは可能だったと思われます。
いずれにしても、旧大津陸軍墓地で一番古いお墓はどれかは、知りたいと思います。
●旧真田山陸軍墓地は明治3年が最古
ちなみに、旧真田山陸軍墓地で一番古いお墓は
「下田織之助」という墓碑名のお墓。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
亡くなられた日付から、明治3年のものと思われます。
旧大津陸軍墓地ではどうでしょうか?
(上の写真は、「大津第九連隊の碑文」。明治七年の創設とある)
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/02/1833513/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。